87話
株田一丸
誰かに呼ばれた気がして、思わず後ろを振り返った。
――いるはずもないのに。
前を向いて再び歩き出すと、さきほど蹴り飛ばした空き缶が、音を立てて縁石の脇で転がっていった。
自分の舌打ちの音にさえ憤りを抱いた。
午前五時半を回った頃。淡く染まる明け方の空の下を、一丸は一人歩いていた。
人の姿がない東京の道を、東へ。馬車通りは、隅田川から錦糸町の方まで一直線に延びている。白と群青と、わずかに差した陽の光の色に、足並みと呼吸を合わせた。浅い夢の中にでもいるかのように。
新しく働き始めた配送会社から自宅までの距離は、歩いて十五分ほどにすぎない。それでも、勤め出してひと月余りが過ぎた今になっても、その足取りはどこかぎこちなく、馴染まない手つきで真新しい電化製品を扱う時のように覚束ないままだった。
マンションへ近づくにつれて、折り目の正しいスーツに身を包んだ人々が増えていく。眠気を含んだ表情で駅へと急ぐ人や、缶コーヒーを握りしめて通り過ぎる人。彼らの目に、今の自分がどのように映っているのかはわからなかった。
朝の街をあてもなく漂う、くたびれた軽装の男。定職にも就かず、ぶらぶらしているプー太郎にでも見えているのかもしれない。もっとも、本当のところは、誰の目にも一丸の姿など、映ってはいないのだろう。
懸命な面持ちで歩く人々と、幾度も肩を肩をすれ違わせた。けれど、その眼差しが交わることは一度としてなかった。これから一日を始める人々と、自分は一日を終えてゆく、ただの人。
信号待ちで立ち止まった男が腕時計を見て、小さく舌打ちした。一丸のそれとは、意味がまるで違う舌打ちだった。
世間一般の穏やかな暮らしというものがあるならば、きっとあそこに見える景色こそがそうなのだと思う。どこで掛け違えてしまったのか、狂い始めた人生の歯車は、気づいた時にはもう、元へ戻せないところまできていた。
自分はきっと、人々の歩く本線からほんのわずか外れた、並行する細い筋の上をただ滑り落ちているだけなのだ。
五階建ての建物には、エレベーターの類いは存在しない。最上階へ続く薄暗い階段を、一段ずつ確かめるように踏みしめて上る。玄関のドアを閉めると、ようやく肩の力が抜けた。六畳ほどのダイニングを通り過ぎ、ベッドにもたれかかるようにして冷たい床に深く座り込んだ。
そのまま帰り際の店で買ったファストフードを引っ張り出して、紙の包みを破いてかぶりついた。乾ききった喉を癒やすようにドリンクへ手を伸ばし、ストローをカップのフタへ鋭く突き立てる。
悪魔的なぶどう色の炭酸が、夜勤明けの頭をゆっくりと現実から引き剥がしていった。
一丸がこの部屋を借りたのは、専門学校に入学した年の夏休みからだった。最寄りの錦糸町駅からは少しばかり離れてこそはいたが、窮屈な駅前の物件を避けて選んだだけあって、十分な広さがあった。それに、建物は古めかしくはあるものの、この寂れた雰囲気は不思議と自分には性に合っていた。
学校での思い出として語れるものは、それほど残っていない。一年を待たずに去ることになったからだ。実質的には、夏休みを過ぎてから、教室に顔を出すことはほとんどなくなっていた。
きっと、あの場所は自分に合っていなかったのだと思う。描くことそのものを嫌悪していたわけではない。ただそれは、幼少の頃に幼馴染に小さなスケッチを褒められた記憶が、ささやかな支えとして残っていただけだった。周囲を見渡せば、予備校で鍛え抜かれた手つきで美しいデッサンを易々と仕上げていく者ばかりで、課題の歩調についていけなくなったのが先だったか、それとも教室へ向かう足が重くなったのが先だったか。あるいは、夕方から朝方までの居酒屋のアルバイトが身を削っていたのか、今ではその境目すら、ぼんやりとしていて定かではなかった。
そもそも専門学校とは本来、就職すればすぐに戦力になれる人材を育てる場所のはずだった。少なくとも一丸は勝手にそう思い込んでいた。ドラマの主人公のように、広告代理店で華々しく活躍する。入学した時点では、本気でそのつもりでいた。




