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86話

 卒業式の夜、丸ちゃんは公園へ呼び出された。実際に手を出したのは、矢刃本人ではなく、その取り巻きだった。


「許せない……。何なの、そいつら。警察には?」


 沸き立つ気持ちを抑え込んで、仁子は首を横へ振る。

 詩亜の肩は怒りに震えていた。これ以上立たせておくのも危なっかしい。仁子は空になったカップを引き寄せると、新しく淹れたコーヒーを注いだ。


「とりあえず、座りな」


 立ち上る湯気が、二人の間をゆっくりと漂っていく。

 詩亜の不良(ヤンキー)嫌いは筋金入りだった。中学時代に巻き込まれた事件以来、その手の話には人一倍敏感だ。仁子もその昔、こっ酷く説教を食らった。高校進学を機に家族で横浜へ移ったのも、あの出来事が少なからず影を落としていたと聞いている。


「……言ってくれればよかったのに」


 そう漏らした詩亜は、何かを思い出したのか顔を上げた。


「だからだ。卒業式の次の日、電話で話した時、様子がおかしかったのは」


 記憶を辿るように小さく呟く。


「丸ちゃん。飲み会に行ってたんじゃなかったんだね……」


 言葉を飲み込みこんだ仁子は、ただ静かに頷いた。


「馬鹿な男だね」


 心配をかけまいと、一人で抱え込む。その癖だけは昔から何一つ変わらない。


「……中学の時の、仕返しだったのかな」


 詩亜は、あの盗撮未遂事件を止めたのが丸ちゃんだったことを知っている。


「だろうね」


 当の本人は、駿と二人だけの秘密だと思っているようだけど、そんなものはとっくに見抜かれている。


「ああいう連中は、恨みだけは気持ち悪いくらいに執着してくる。仕返しするまで終わらないと思ってるからね」


 この世界は失うもののない無敵が最強だったりする。中学でありとあらゆる罪が重なり少年院へ行った矢刃はある意味、あの頃に全てを失っている。その後、家族にも見放されたと聞いている。そんな相手を無視し続けた丸ちゃんは、ある種正解だったのかもしれない。


「あーあ……」


 詩亜は、深く息を吐き出してから、カップにミルクを落とした。しなやかで長い指先が、スプーンを回す。

 大人になったのだと、思う。昔の詩亜なら、この事実を到底受け止められなかっただろう。


「男って、ほんと馬鹿ばっか。どうしてそんなことばっかりするんだろ。こんなの、どっちかが死ぬまで終わんないじゃん」


 仁子は自分のコーヒーに、ミルクを一滴垂らした。白い筋がゆっくりと、黒色に溶けて消えていく。それを見つめながら、小さく相槌を打った。


「……ほんとだね」


 詩亜もきっと、同じ顔を思い浮かべている。

 真っ直ぐすぎて、不器用で、放っておけば何でも一人で背負い込んでしまう男の姿を。


 ほんのひと息をした後だった。


「……丸ちゃん、元気にしてるかなぁ」


 ぽつりと零した詩亜の声が耳に届いたのは。

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