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84話

 その週末、詩亜が新宿に用事があるというので、店で落ち合うことにした。


「お昼は食べた? 狭いけど、適当に座って」


「あ、平気。来る途中で軽く済ませてきたから」


 今日は娘の陽葵(ひまり)も一緒だ。


「詩亜ちゃん、こんにちは」


「きゃあ、可愛い」


 開店前の静かな空気に、陽葵を愛でる詩亜の弾んだ声が通り抜けていく。


「たく、子供か。ほらこれ、食後のおやつ」


 営業中とは違う、すっきりと片付いたカウンターに、コーヒーとガラスの器に入れたプリンを並べる。


「陽葵も、一緒に食べなさい」


「トン子の手作り?」


「まあね。昨日の夜、仕込んどいた」


 三人でプリンを食べながら近況を交わした。陽葵がいくつになったのかと尋ねられ、娘は得意げに「さんさい」と三本の指を立てる。


「詩亜ちゃん、かわいい。びじんさん。ママはピンクのブタさんだから」


 どこでそんな言葉を覚えてきたのやらと、仁子は内心で小さく苦笑した。


「こら、誰が豚だ。ほら、陽葵、口ついてる」


 やれやれと仁子は、プリンで汚れた口元を、おしぼりで拭ってやる。

 褒められて、詩亜はご満悦だ。


 それでも、あながち的外れでもない。近頃の詩亜には、以前にはなかったしたたかな気品が備わっていた。それは、日常的にピアノの音を耳にしているとそうなるのか。あるいは男か。


「そういえば。何かいたよね? 同じ高校のメンズ」


 --確か、


「あー、町野君だ。うまくいってんの?」


「町野君? 全然違うって。あれは、何度か誘われて、一、二回デートしただけ」


「へぇ。デートはしたんだ」


 からかうと、詩亜は照れ笑いも返さず、視線だけをカップへ落とした。


「なんか、歩く速さが合わなくて、申し訳なくなっちゃって。丸ちゃんと歩いてた時は、そんなこと気にしたこともなかったんだけど」


 仁子は思わず吹き出した。


「ま、あんたらは付き合い長いからな」


 それ以上は踏み込まなかった。今はその話を広げる空気ではない、そんな気がした。


「あー、今日はごめん。わざわざ店まで来てもらって。また大きいコンクールあるって言ってたよね」


「平気、平気。それに今回は、自信あるし」


 もう詩亜も大学四年生。音楽へ真っ直ぐ注ぐ情熱が、その美貌にまで磨きをかけているように見えた。


「あと、いい息抜きになるから気にしないで」


「優勝したら海外留学なんでしょ? すごいよね」


「うん。その予定」


「じゃあ今のうちに、家族旅費、貯めとかないとな」


「トン子、話が早すぎ」


 ころころと笑う詩亜につられ、仁子も肩の力が抜ける。

 詩亜の声とほぼ同時くらいだった。空いたままの入り口から、夫がひょっこり顔を出した。


「あー。詩亜ちゃん、久しぶり。いらっしゃい」


 強面の顔をくしゃりと崩して笑う。その親しい間柄でしか見せない顔を見るたびに思う。ああ、この人を選んでよかったと。


「あ、こんにちはー。お邪魔してます」


「いやいや、せっかくだからゆっくりしていってよ」


 夫は大きな体をかがめ、陽葵を軽々と抱き上げた。


「陽葵、パパと遊びに行こっか」


 新宿という街では、物騒な影が日常と隣り合わせに潜んでいる。陽葵には、そんなものに触れてほしくない。暴力、薬物。人が壊れていくところを、仁子は何度も目にしてきた。

 二人きりになると、店内には落ち着いた空気が戻ってきた。

 束の間の平穏を確かめるように、仁子はカップに手を伸ばす。冷めかけたコーヒーが、まだ少しだけ温かい。明日も、明後日も、こんな日常が続けばいい。

 そんな物思いにふけていると、詩亜が何かを察したのか、言葉を選ぶように口を開いた。


「……トン子。橘さんって。中学の時の、あの警察の人だよね」

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