83話
二〇〇四年 古朱仁子
夏の余韻が残る九月。その女はやって来た。
午前四時。店内はまだ、客たちの熱気に満ちていた。
カウンターの上には、使い終えた皿と湿ったおしぼりが積み上がり、換気扇の鈍い羽音が響く中、煙草の残り香と酒の混じり合う独特の匂いが、天井付近で重く滞っていた。
--女は今日も、いつもの普段着でまた店を訪れた。
「いらっしゃいませ。すみません、閉店までもう……」
開いた入り口の引き戸に向かって仁子は言いかけ、口を閉じた。
三十代半ばの女。チノパンに白いシャツを合わせたその格好は、街角ですれ違っても記憶に留まることのない、そんなありふれた女だった。
慣れた手つきでカウンターの椅子を引き、女は腰を下ろして注文を入れる。
「いつもの、お願いします」
ウーロン茶がグラスに注がれ、響く氷の音に耳を澄ませながら、仁子の髪へと視線を遊ばせた。
「素敵な髪色ね。今度はピンク?」
「ま、まあ……」
「ありがとう」言うと女は、ゆっくりとグラスを口に運ぶ。
狭いカウンターの端で、女は時折、馴染みの客との世間話に控えめな笑みを添える。その光景だけを切り取れば、夜更かしを愉しむ、ただの客の一人に過ぎない。
けれど、仁子は抗いがたい緊張を覚えていた。
女の視線は、どこまでも鋭い。まるで周囲の些細な言葉の欠片すら取りこぼすまいとするように、空気を研ぎ澄ませているからだ。
やがて二十分が過ぎ、最後の客が店を出ていく。
仁子はようやく張り詰めていた息を大きく吐き出した。
「橘さん。あたしの店に毎日来るの、やめてくれる?」
からりとグラスの中で、溶けかけた氷が鳴った。
「いいでしょう。少ない昔のよしみなんだから。またこうして新宿で会えたのも何かの縁でしょう?」
「よしみって……。あたしは望んでないし」
「あちしって言ってたあなたが、今じゃ子供二人の母親とはね」
柔らかく口元を緩めた横顔は、何かを懐かしんでいるように見えた。
「もう平気なの? 下の子、まだ小さいんでしょう?」
「旦那のお母さんが見てくれてるから平気」
カウンターの奥からは、夫が食器を片付ける音が聞こえる。
橘さんは、ふふと静かに笑った。我が子を見守るような、そんな目をしていた。
「もしかして、あたしに容疑かかってる?」
問いに、答えを濁すように橘さんは視線を揺らす。あるいは旦那を疑っている? いや、それはない。過去の過ちは二人とも十代のうちに、しっかりとけじめをつけている。
「どうかしらね。捜査情報は言えないのよ」
何気なく夫の方へ目配せを投げたため、仁子は大丈夫だと言わんばかりに視線を返した。
警官であることは、夫には伏せている。そもそも警察の人間が店を出入りしているなんて知れたら問題だ。
ここはやっとの思いで二人で構えた、大切な店なのだから。




