82話
--行かないで。と思った。月明かりと、桜と、丸ちゃんの後ろ姿が、私の中の純真を掻き立てる。
「丸ちゃん!」
名前を呼ぶと、丸ちゃんは首だけ後ろに向けて、照れたように目を逸らす。
「詩亜。ピアノ」
ひとつ間があって。
「頑張ってな」
まただ。いつものこれだ。
好きだよの代わりに、頑張れと言われている気になる。
詩亜は目の前の背中のシャツを、ぎゅっと掴んだ。
「嫌! 別れたくない」
どうして好き同士なのに別れなくてはいけないのか。言葉にする術を持たない。
言うつもりのなかった弱音が、勝手にどんどんとこぼれ出てくる。
「私、我慢するから。今のままでいいから」
「悪い」
背中越しから響く、切ない声。
「悪いのは、おれの方なんだ」
丸ちゃんにまた、こんな言葉を言わせてしまう自分は、罪なのだろうか。結末なんてとっくに知っているくせに。
「ありがとうな、詩亜」
「何が?」
「おれなんかと一緒にいてくれて。詩亜のおかげで、高校もちゃんと卒業できたし。来月からも頑張ろうって気にもなれてる」
「絶対、嫌」
子供みたいに首を横に振る。顔をこっちに向けて、と願う。
「悪いな、おれじゃ、詩亜を幸せにできない」
「そんなの嘘。私には丸ちゃんしかいない」
「まあ、おれも、まだ若いからさ。色々、経験したいんだわ」
ほんとうに、嘘が下手な人。本当は大好きなくせに。もっと、上手に隠してほしかった。
いつからか、二人は縛り合うことでしか繋がっていられなくなっていた。連絡先を消させたのも、丸ちゃんが寮まで送ると言い張ったのも、根っこは同じだったのかもしれない。足りない何かを、互いの中に押し込んで、保管し合って生きてきた。
永遠なんてないのに。信じてしまうくらいに、大切な年月だった。
好きなのに、どうして、別れなければいけないのか。
言葉にする必要なんてない。ありふれた文字を何行並べたところで、物心つく前から積み重ねてきた二人の関係を伝えることなんて、当然できっこないのだから。
「元気でな。詩亜」
掴んでいた指先が、丸ちゃんの背中から離れていく。
涼しい風に吹かれ、桜の花びらが頬をかすめた。
夜の桜は、別の花みたいだった。昼間にはあれほど明るく、春そのもののように咲き誇っていたのに、闇の中では静かで、少しだけ寂しげに佇んでいる。
もう散ることを、知っているからだろうか。
満開であることと、終わりを抱えていることが同時に存在している。
だからこそ、今この瞬間が、これほどまでに尊いのかもしれない。
小さくなっていく後ろ姿をながめながら、振り向くな、と何度も心の中で呟く。もし今、丸ちゃんが振り返ったら、
--私はまた、諦めがつかなくなってしまう。
翌日の遅い朝、カーテンを開けると、拍子抜けするくらいの陽射しに思わず目を細めた。
髪をセットして、薄くメイクもしてみる。頭の片隅では、今日約束している友人とのショッピングの予定がもう動き出していた。
鞄に財布を詰め直した時、床に落ちていた小さな紙切れが目に入る。卒業式の日、町野君に連絡先の交換を持ちかけられて断ったのに、それでも強引に渡された、彼のメモだった。
指先で紙片を拾い上げ、数秒考えた。
すると、携帯が短く鳴った。
メールを確認すると、友人からの催促だった。
やばい。
詩亜はメモを鞄に入れて、急いで部屋を飛び出した。
第三章おわり。
次章でラストです




