79話
「あの、私。先生にまだ、ちゃんとお礼を言えていません」
昨日までお世話になっていたのは、黒木先生の恩師にあたる人だった。指導者探しが難しくなることを見越していた黒木先生は、前もって自ら頭を下げ、協力を頼んでくれていた。
「余計なことを」
徐ろに視線を逸らした黒木先生は「挨拶程度よ」と言うと、サングラスを外した。
「あなたの出す音には、私と似通った響きがある。誰にも寄りかからず、独りよがりで、他者を寄せつけない。そんな瞬間が、確かにある」
小さく息をつき、「生意気な子ね」とこぼした横顔には、微かな温かさも混じっていた。
「人のことは言えないけれど。そんな性格のあなたに、ついてくる男なんて果たしているのかしらね」
不意の言葉に、唇が開きかけて閉じた。
黒木先生はもう一度ふっと笑ってから続ける。
「今日の演奏を聴いてわかったわ。腹は決まったようね」
全部見透かされている。詩亜の背筋がすっと伸びる。
「……はい。これから決着つけてきます」
「そう」
小さく頷き、黒木先生は再びサングラスの奥へ視線を隠した。
「じゃあ、これで失礼するわ」
背を向けかけた黒木先生が、何か思い出したように振り返る。
「これから、忙しくなるわね」
そう言い残して、雑踏へと歩き出した。舞い散る桜の花びらが、その背中を追いかけていく。
その姿に向かって詩亜は深く頭を下げ、精一杯の声を響かせた。
「ありがとうございました!」
丸ちゃんは駅の南口で待っていた。
卒業演奏会に来てほしいと、昨夜、電話で念を押した。約束したはずなのに現れなかった。メールには、寝坊したこと、それでも国立へ向かっていること、桜が見たいのだといった文面が連なっていた。
文句を言おうと決めていたのに。その姿を見つけたその瞬間に、考えるよりも早く駆け出していた。人混みをかき分け一直線に向かった。
「丸ちゃん、会いたかった」
勢いのまま抱きつくと、「たく……おいおい。困ったやつだな」と呆れた声が降ってくる。けれど、その手は背中を、ぽん、ぽんと二回、慈しむように叩いてくれた。
桜並木の下を、肩を並べて歩いた。こうやって顔を直接合わせるのは久しぶりだった。あの日、電話で別れて以来、会えていなかったのだ。
春休みに入った昼下がりの大学通りは、行き交う人もまばらだった。桜の名所として知られる大学通りの歩道橋を越え、ぶらぶらと進んでいると、パンの香ばしい匂いに誘われ、そのまま簡単に昼食を済ませた。
そしてまた、行き先も決めずに歩き出す。同じ場所を何度通ったのかさえ気にしない。ただ、心ゆくまで二人で歩いた。




