78話
舞台袖の暗がりに、幕の向こうから響く音が流れてくる。迷いの色が、一つもない音。
背後で友達が、ヴァイオリンの持ち手を指先で、とんとんと叩いていた。それは癖か、あるいは儀式か。視線が交差すると、彼女は明るい声で問いかけてきた。
「詩亜ちゃん、緊張してる?」
深緑のドレスを華麗に着こなし、全国の頂点に立った者だけが持つ風格は、どこまでも揺らぐことがない。
「まあ、それなりに」
「すごいよね〜、満席なんて。この春に入学してくる子たちもたくさんいるみたいだよ」
「そうなんだ」
「格好いいとこ見せなきゃだよね! 詩亜ちゃんの演奏も楽しみ」
付け足された言葉には、弾むような笑みが滲んでいた。以前、学校の中庭で、『恋する乙女の音だ』と見抜いたその耳は、今日の演奏を聴いたら何を感じ取るのだろう。
「ごめんね。主役、もらっちゃうかも」
冗談めかした言葉を投げると、彼女は鈴を転がすように笑った。余裕すら伺えるその貫禄に、少しだけ嫉妬したのもある。
「おっ、上等、上等。やっぱ詩亜ちゃんは、そうこなくっちゃね!」
たとえ会場を熱狂の渦に巻き込んだとしても、彼女はきっと、それを容易く塗り替える演奏を披露するに違いない。
――その先って、どんな未来があるのかな。
前に彼女が口にしていた言葉。その時、ずっと遠くの方を見ていたあの目を思い出す。今のこの子には、あの頃は見えなかった光の道筋が、少しは見えているのだろうか。
会場を包み込む拍手の波音を引き連れ、前の奏者が袖へと戻ってくる。
「次の人、遠江さん、どうぞ」
促されるまま、舞台へと一歩を踏み出した。
目に飛び込んできた照明は、想像よりもずっと眩しく、白く溶けるように輝いていた。
息が切れて、はあはあはあと、荒い呼吸だけが耳の奥で繰り返される。ドレスの裾が脚に絡みつくのも構わず走った。
正面玄関を抜けると、春のぽかぽか陽気が汗ばんだ肌を、じんわりと包んだ。桜はすでに淡く染まっていて、満開を迎えていた。
――いた。
舞い散る花びらが風に流され、視界を幾重にも横切っていく。駐車場へ向かって歩く、黒木先生の背中が見えた。
「先生――っ」
声を張り上げると、ゆっくりとこちらを振り返る。
肩で息をしながら、詩亜はその場に立ち尽くした。
「はしたない子ね。そんな格好で」
サングラスの奥から、黒木先生は冷ややかな眼差しを向ける。
「先生。今日、来てくれたんですね」
「当然でしょう。この私が一度手にかけたピアニスト。生きるも死ぬも、その行く末を最期まで見届けるのが、私の務めですから」
いつものように切り捨てるような口調だった。




