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欠け星アルフェラッツ もしもダビデ像が服を着てたら  作者: Y.Itoda
第三章 二〇〇〇年〜 遠江詩亜
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77話

 最後の音を鍵盤から離し、練習室に漂う余韻を噛み締めるように味わった。


「今日で、レッスンは終わりですね」


 先生が短くそう言葉を置いた。白髪を丁寧に結い上げた小柄な背中を、窓から差し込む陽光が、淡く縁取っている。

 やがて、床を擦る足音が背後へ回り込み、そっと、肩に温かな重みが乗った。


「ずっと見てきましたが、もう大丈夫みたいですね。卒業演奏会、楽しみにしてますよ」


「え……」


 良くなっているという実感は、どこにも見当たらない。むしろ、この数週間、崩れてばかりだった気がする。

 先生が荷物をまとめ、出口へと歩き出す。


「あの、先生」


 思わず、その背中を呼び止めていた。


「本当に、これで……いいのでしょうか」


 先生が足を止め、慈愛に満ちた眼差しで振り返る。何でも受け入れてくれる聖母のような笑顔に、これまで幾度となく救われてきた。先生は一度も私的な領域に踏み込まず、ただひたむきに音と向き合い続けてくれた人だった。


「授業で書いていた詩、とても素敵でしたよ。繊細で、実直で……そこに、恐ろしいほどの狂気も混じっていて」


 言葉を返せない。その課題を出したのも、他ならぬ先生なのだから。


「ありのままを弾けばいいのです。すべて、音楽が答えを教えてくれますから」


 先生はおほほと上品に微笑んでから、貴婦人のような柔らかな所作で続けた。


「先生だって若い頃は、好きな人を追いかけて、無理やりドイツまで渡ったのよ」


 チャーミングに片目を(つぶ)って見せる仕草は、少女のように愛らしい。


「大丈夫、詩亜さん。春は、すぐそこにまで来ていますよ。よーく見てみなさい」


 それだけを残して、今度こそ先生は、ゆっくりと部屋を後にした。




 外に出ると、穏やかな直射日光に目を細める。校庭を歩きながら周囲の草木へ視線を向けると、桜の花びらが小さく咲き始めていることに気づいた。

 卒業式はあっという間に過ぎてしまった。周りのことに気を取られすぎて、立ち止まる暇もなかったのだ。学校も、寮も、桜並木の慣れた道も、もう終わりなのだと思うと、溜め込んでいた想い出がふつふつと胸を満たし、今更ながらに実感が追いついてくる。もう終わりなのだと。


 ――やっと今、私は卒業式を迎えた。


 忙しすぎて、瞬き一くらいの、五倍速ほどで駆け抜けた高校生活だったけれど、間違いなく言える。楽しかったと。

 今なら心から、そう言える。それと、


 ――丸ちゃん。


 卒業おめでとう。

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