77話
最後の音を鍵盤から離し、練習室に漂う余韻を噛み締めるように味わった。
「今日で、レッスンは終わりですね」
先生が短くそう言葉を置いた。白髪を丁寧に結い上げた小柄な背中を、窓から差し込む陽光が、淡く縁取っている。
やがて、床を擦る足音が背後へ回り込み、そっと、肩に温かな重みが乗った。
「ずっと見てきましたが、もう大丈夫みたいですね。卒業演奏会、楽しみにしてますよ」
「え……」
良くなっているという実感は、どこにも見当たらない。むしろ、この数週間、崩れてばかりだった気がする。
先生が荷物をまとめ、出口へと歩き出す。
「あの、先生」
思わず、その背中を呼び止めていた。
「本当に、これで……いいのでしょうか」
先生が足を止め、慈愛に満ちた眼差しで振り返る。何でも受け入れてくれる聖母のような笑顔に、これまで幾度となく救われてきた。先生は一度も私的な領域に踏み込まず、ただひたむきに音と向き合い続けてくれた人だった。
「授業で書いていた詩、とても素敵でしたよ。繊細で、実直で……そこに、恐ろしいほどの狂気も混じっていて」
言葉を返せない。その課題を出したのも、他ならぬ先生なのだから。
「ありのままを弾けばいいのです。すべて、音楽が答えを教えてくれますから」
先生はおほほと上品に微笑んでから、貴婦人のような柔らかな所作で続けた。
「先生だって若い頃は、好きな人を追いかけて、無理やりドイツまで渡ったのよ」
チャーミングに片目を瞑って見せる仕草は、少女のように愛らしい。
「大丈夫、詩亜さん。春は、すぐそこにまで来ていますよ。よーく見てみなさい」
それだけを残して、今度こそ先生は、ゆっくりと部屋を後にした。
外に出ると、穏やかな直射日光に目を細める。校庭を歩きながら周囲の草木へ視線を向けると、桜の花びらが小さく咲き始めていることに気づいた。
卒業式はあっという間に過ぎてしまった。周りのことに気を取られすぎて、立ち止まる暇もなかったのだ。学校も、寮も、桜並木の慣れた道も、もう終わりなのだと思うと、溜め込んでいた想い出がふつふつと胸を満たし、今更ながらに実感が追いついてくる。もう終わりなのだと。
――やっと今、私は卒業式を迎えた。
忙しすぎて、瞬き一くらいの、五倍速ほどで駆け抜けた高校生活だったけれど、間違いなく言える。楽しかったと。
今なら心から、そう言える。それと、
――丸ちゃん。
卒業おめでとう。




