76話
荷造りは途中のまま、だらだらと過ごしていたら、気づけば日はすっかり暮れ落ちていた。
机に向かい、手にした四季を編んだ本に目を落とすと、『おぼろ月』。こんな季語が出てきた。春の、くっきりと見えない月。
窓の外を見やれば、今にも降り出しそうな雨催いの気配が、湿り気を帯びている。
いつかの授業で、自分の曲に詩を添える課題があったことを思い出す。幸せの真っ只中にいたはずのあの頃、恋の始まりを描こうとしたのに、ペン先は何故か、切ない響きばかりを紡いでいた。
気持ちと歌詞は、正反対になるものらしい。前に、友達がそう言っていた。
だとしたら、--今の私は。
携帯の電源は、切ったまま机の隅に置いている。何度も着信を確かめてしまう自分に、少しだけ疲れてしまったから。
気晴らしに、詩でも書こうか。そう考えていた、その時だった。
――馬鹿野郎。誰だ、こんなタイミングでリクエストした奴は。
ラジオから流れてきた、聞き覚えのあるイントロ。丸ちゃんと何度も何度も、一緒に聴いた曲。
どれほどぶつかり合っても、互いに手を取り合って生きてきた。喧嘩をして腹が立つことも数えきれない。でも、幼い頃の丸ちゃんが思い浮かぶと、不思議と許せてしまう。そんな二人の関係。
--今、何してるの? 丸ちゃん。
我慢できず、携帯の電源を入れる。起動音が鳴って画面が明るくなる。そして、目を疑った。指が画面の上で止まる。
そこには、見覚えのない言葉が並んでいた。何度も、同じ行を読み返した。
『月でもみてみな。今日は綺麗だから』
いつの間にこんなことを? 人の携帯を勝手に。そもそも、こんな機能があることすら知らなかった。
--丸ちゃん。
窓の外の月は、薄く化粧を纏ったように儚げで、切ないほどに、綺麗だった。
--どんな気持ちでこれを?
今の自分では検討もつかない。--私は。丸ちゃんのことをわかっていたつもりで、全然わかっていなかった。
途端、涙が溢れ出してきた。
--馬鹿は私だ。
ラジオからは、さっきからずっと、耳に触れては離れない、思い出の唄が部屋を満たしている。
砂に描いた、近づくほど素直になれなかった二人の面影は、波に濡れて、そっと崩れていく。
声を殺して、泣いた。次から次に涙が溢れてくる。止め方が、わからなかった。
--ごめんね。丸ちゃん。寂しい思いをいっぱいさせたね。
窓辺を、こつんと何かが叩いた。
ガラスには、水玉の粒がついている。
雨が、静かに、降り始めたらしい。




