74話
卒業式の後に残した着信履歴には、未だ何の返信もない。詩亜はそのまま沈み込むようにベッドへ倒れ込んだ。
――本当に、このまま終わってしまうのだろうか。
その迷いも翌日には、少しずつ形を持ち始めていた。
携帯の着信音で目を覚ますと、画面に映る時刻は十一時三十六分。よほど疲れが溜まっていたのか。これほど長く眠ったのはいつ以来だろう。微睡みの残る頭で、詩亜はゆっくりと電話に出た。
初っ端から「……何?」と、あからさまに自分を遠ざける丸ちゃんの声に少し身構えた。声のトーンも死の淵にいるのではないかと思うほど低く、死神でも引き連れてきたのではないかとさえ心配になる。
卒業式の打上げで、朝方まで飲んでいたせいだろか。飲み会はどうだったのだろう。どうしたって気になってしまう。けど訊けなかった。
それでも、いつも通りに会話が続くうちに、もう怒っていないことはわかった。だけど、別れたくないと何度伝えても、丸ちゃんがその想いを受け入れてくれることはなかった。
――もう、本当に駄目なのかもしれない。
この時、初めて、それを、うっすらと自覚した。
「久しぶり、詩亜。いきなり呼びつけてごめん」
あくる日のレッスン帰りの昼下がり。ファミレスの奥の席に、トン子はもう座っていた。
「久しぶりだね、トン子」
混み合う店内で、詩亜は向かいに腰を下ろす。
「あたしの方こそ、急にごめん。今、ピアノ大変だよね?」
「全然、平気平気」
嘘ではない。実際そうだった。気持ちは落ち着いていた。毎日、向かっている鍵盤に、少しも身が入っていないだけで。
「あ、卒業おめでとう」
「うん、ありがとう」
「丸ちゃんの学校と同じの日だよね? 駿は来週って言ってたな。あたしも卒業したかったー」
トン子とは、互いの近況報告というには程遠い、とりとめのない話が続いた。思いついたことを口にしたり、昔の思い出に脱線したりと、ただ他愛ない時間が過ぎてゆく。
直接会うのは、一年ぶりくらいだろうか。
知らぬ間に、一人称が『あちし』から『あたし』に変わっているのも、それだけの時間が二人の間に流れていたのだ。それでも、変わらない懐かしい言葉運びには、自然と表情が綻ぶ。
――心配して来てくれたんだな。
話をしている最中に、トン子の視線が何度も詩亜の頭に落ちていた。
思った通り、トン子は知っている。丸ちゃんと別れたことを。
ひと思いに吐き出した。
「もう……トン子。大丈夫だって」
今できる限りの笑顔で、自分の頭を軽く叩いて見せると、トン子も、それに合わせて肩の力を抜いた。
「だよね。余計な詮索はなしか」
冷静に考えると、あの夜そんな真似をしていた自分が恥ずかしい。本当に頭から血が出なくてよかった。今では笑い話だ。
丸ちゃんの話を色々と聞いてもらっていると、「詩亜、めそめそすんな」と背中を押された。こんなところにも馬鹿にできない歳月が積もっていたらしい。
「泣いてないから」
それは偽らざる本心だった。別れたというのに、不思議と涙が出ないのだ。
「あのさ--」言いかけて、トン子は、「ごめん、今はいいや、また今度話す」と話を切った。
「丸ちゃんもさ。色々、あるみたいだからわかってやんなよ」
「わかってる。丸ちゃん嘘下手だもんね」
「そうなんだって」と笑いをこぼすトン子の姿は頼もしかった。
襟足を高めに刈り上げたショートマッシュウルフに、鮮やかなオレンジ色の髪。見た目こそ少々攻めてはいるけど、中身がまるで違っていることは明らかだ。あの坊主頭が、今となっては懐かしく思い出される。
締めくくりにトン子は言う。本当は、このことを直接会って伝えたかったのだろう。
「あたし、結婚するんだ」




