73話
しばらくの沈黙があって、耳元で声がした。
『……詩亜?』
呼ぶ声が恐る恐るとしていた。そのおかげで、ああ私は今、常軌を逸して狂っているのだということを、認識することができた。詩亜は答えない。代わりに、もう一度、頭を壁に打ちつけた。
ゴツ。
『おい、今の何の音だ? どうした? 大丈夫か?』
「行かないで」
ゴツと三度目。同じ場所に、また打ちつけた。
「行くなら、頭から血が出るよ。それでもいいの?」
携帯を持つ手は、何故か握ったまま力が入らなくて、そのまま滑り落ちそうだ。
電話の向こうの、息を飲んだ丸ちゃんの表情を想像するのは容易だった。
『……詩亜、やめろ。マジで、今すぐやめろって』
切迫した願いも、今の詩亜にはどこか遠い場所の出来事のように聞こえる。
「じゃあ、行かないで」そう唇が、意に反して同じ言葉を繰り返す。
『それとこれとは、違うだろ』
「同じ」
長い沈黙が、二人の間に重く横たわる。
わるい、と小さな声の後に『こんなんじゃ駄目だな』という言葉が鼓膜にまとわりつくように、ざらりと触れた。
丸ちゃんが、絞り出すように言った。
『おれたち、別れよう』
宣告された瞬間、意識が真っ白に塗り潰される。
はっきりと、言われた。
「嫌」
そんな結末は、絶対に嫌だ。聞きたくない。
『わるい。もう、決めた』
プツリと、無情な切断音が響いた。
手から離れた携帯が、ベッドの上に落ちた。死んだ魚みたいに一度跳ねてから動かなくなる。光を失った画面には、刻まれた通話時間だけが表示されたまま。
--え、何?
--私が、悪いの……か?
卒業式の朝。校庭の桜は、冷たい空気に蕾を硬く閉ざしたままだ。
制服に袖を通すのは、これが最後。鏡に映る自分の顔は、驚くほど平坦で、昨日までの日常と何も変わらないように見えた。
式典の間、詩亜はずっとポケットの中のことを考えていた。マナーモードにしてある携帯は、式が始まってから一度も震えなかった。
名前を呼ばれ、壇上に歩みを進める。証書を受け取って降りる際、周囲の拍手が、まるで他人ごとのように遠く響いていた。
昇降口では、誰かが涙を流しながら寄せ書きを回している。いつの間に手元に渡されたそれは、あまりに眩しく映った。ペンを握った指先に力を込めるものの、何も言葉が見つからない。
適当な空白に、当たり障りのない挨拶と名前だけを書き留め、隣の子へ渡した。
校門を潜り、立ち止まって携帯を開く。
画面を照らす光は寂しく、そこには何も表示されていなかった。
あれから連絡を一切していない。
だけど、
--私たちは、本当に別れたのか?
結末を告げる合図は、目の前の現実とはまだほど遠く、それはまるで、映画のスクリーンを眺めているような、夢心地だった。




