71話
濡れた髪でも乾かしてるのだろうか。それとも筋トレか。最近は風呂上がりが日課だと言っていた。その姿を確かめられない距離が、心を意味もなくかき乱す。
「明日、会えるよね」
少しの沈黙があった。その一拍すら不満に思う。――私はどうかしてしまったのか。そんな些細な間にも、勝手に何かを詮索してしまう自分がいる。
『おう。午前中だけの短縮授業だから平気だぞ』
「じゃあ、駅で」
『おう、わかった』
用件はそれで済んだはずだった。けれど、耳に残る丸ちゃんの声だけでは、気持ちがどうしても満たされない。数日前までは、こんな飢えを感じることもなかったのに。
今日まで二か月間、本当に我慢した。孤独だった。黒木蘭子という絶対的な指導者を失ったまま、それでも鍵盤に向かい続けた。
新しい指導者を見つけようにも、黒木蘭子の生徒だったと知ると、誰もが一様に腰を引いた。断られ続けた末、ようやく引き受けてくれた先生はいたが、コンクールが終わって手元に残ったのは、形ばかりの入賞だけ。黒木先生が求めていたものには、到底届かなかった。
二人の距離も、自ら遠ざけていた。
毎日の日課だった電話は三日に一度へ。週に何度も会っていた関係も、お正月に一度きり。丸ちゃんが千葉から出てこようとするたび、ごめん、と断った。
そして、現在。
今、この募る不安はきっと、張り詰めていた糸がふいに切れた反動だ。我慢してきた時間を取り戻すように、丸ちゃんとずっと繋がっていたい。毎晩声を聞いて、毎日顔を合わせたい。そんな切実な欲求が、以前よりずっと鮮明になっただけだ。
卒業式まで、あと二週間もない。教室の後ろでは、誰かが「卒業旅行、どこ行く?」と話す声が、休み時間ごとに増えていた。
丸ちゃんからの返信は、少しずつ遅くなっていた。以前は五分と待たせなかったのに、今は三十分、時には一時間。バイトが忙しい、友達と約束がある。送られてくるのはそんな定型句ばかりだ。きっと嘘ではないのだろう。だから、それ以上は追及しなかった。
残された時間は、ついに一週間を切った。電話越しに丸ちゃんが切り出す。
『なあ、卒業式の後、クラスの奴らと打ち上げやるんだけど』
何気ない声色からは、張り巡らせた強固な防御網を何とかすり抜けようとする意図が透けて見えた。
『おれ、行くから』
そう、先に告げてきた。




