70話
戻った寮で、部屋の灯りはつけないまま、鞄を机へ下ろした。鞄の脇では、ラッコのキーホルダーが揺れている。丸ちゃんの鞄にも同じものがある。
窓の外の月明かりと、わずかに差す街灯の光を頼りに、手袋を外した。内側にはまだ温もりが残っている。
机に置いて、代わりに寮の鍵を指先で拾い上げる。名前入りのキーリングに付け替えた。色違いを対で買い、さっきようやく丸ちゃんへ渡すことができた。
――キーホルダーに、マフラー、手袋。そこへ、このキーリング。
お揃いが、四つになった。
革の輪を縫い目に沿って指先でなぞる。視線は自然と、一つずつに巡った。
鏡の前の詩亜の頬には、涙の跡がうっすらと乾いていた。
--よし。
と、見返してくる顔に、そう言い聞かせる。
一度だけ深呼吸をして、鞄へ楽譜を詰め込んでから足早に部屋を出た。
「詩亜ちゃーん! メリークリスマス!」
廊下の向こうから、明るい声が飛んでくる。ヴァイオリン科の友達だった。以前、中庭で話をしたあの時のままの調子で、頬を赤くして手を振っている。
「うん、メリークリスマス」
詩亜は短く笑いかけた。
この子も、同じ場所で戦っている。同じ演奏家と相対して、何か完全にスイッチが入った。
--私はやってみせる。
--たとえ一人であろうと、しがみ付く。
「なんか、顔つき変わったね?」
友達は目を細めて、満足気に笑った。
「え、詩亜ちゃん、いいじゃん! いいじゃん!」
自分では、わからない。
「どこ行くの? こんな時間に」
「練習室」
それだけ答えて、詩亜は歩き出した。
「負けるなー!」という声が背中に届くが、振り返らなかった。
燃えるように、ぎりぎりと重なる歯が鳴った。
黒木蘭子? 上等。今までだって一人で戦ってきた。そう幼い頃から、ずっと鍵盤に向かってきた。
――待ってて。丸ちゃん。
絶対コンクールで結果を出してやる。
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春。
の、気配はまだ程遠い。まだ二月だ。無理もない。厚手のルームウェアに身を包み、ベッドの布団の中へ潜り込む。
その日の電話も詩亜からだった。
ワン切りを一度してから、折り返しの着信を待つ。そのわずかな時間さえ、近頃は落ち着かない。我慢しきれず、結局こちらから発信ボタンを押した。
二コール、三コール。
四コール目で、ようやく繋がった。
『もしもし』
「丸ちゃん、遅い!」
『わるい、わるい。風呂入ってた』




