68話
息を切らして角を曲がる。路上を抜け、駅へ向かって一本に伸びた並木道を急いだ。クリスマスのイルミネーションが視界の先まで続いていた。
--いた。
家路を急ぐ人影の合間に、その背中はすぐに見つかった。
「丸ちゃん!」
よかった、と息をついたのは、ほんの一瞬のこと。
丸ちゃんは独りではなかった。レトロな街路灯が作る淡い光の輪の中に、誰かと向かい合っている。
黒木先生……か? どうして、先生が。
二人に接点などあるはずがない。音楽の道を極める先生と、生きる世界が違うはずの丸ちゃんが、どうして今、ここで。
呼びかけようとした足が、その場に縫いつけられた。
黒木先生の視線は、丸ちゃんを真っ直ぐにとらえている。その目は、詩亜が幾度となく向けられてきた、相手を品定めする冷ややかなものと同じだった。
声をかけるきっかけを失った詩亜は、街路樹の陰で立ちすくんだ。
黒木先生の声は、夜気の中で驚くほどよく通る。
「あなたね、詩亜さんの彼氏というのは」
丸ちゃんの背筋が、わずかに緊張で硬くなるのが見えた。
「……はあ。そうですけど、何ですか?」
「そう」
短い響きを確かめるように繰り返してから、黒木先生は小さく吐息をついた。それが嘲笑なのか、呆れなのか、すっと伸びた背中からは何も読み取れない。ただ、冬の冷気に似た不穏さだけが、二人の間に漂っている。
「あなた、高校生よね。卒業したら、どうするの」
「……えっと、専門学校に。デザインの」
「まあデザイン。絵を描くのね?」
先生が微かに笑う。子供の遊びを見守るような、取り合う価値もないという音が、そこには含まれていた。
「いや、それはまだ、これからっていうか」
丸ちゃんの語尾が、自信なげに震えて小さくなっていく。
「あなた。将来、何になりたいの。何を目指しているの?」
その問いに、丸ちゃんは答えなかった。
いや、答えられないのだ。詩亜にはわかってしまった。
将来のことは、今の丸ちゃんには絶対に訊いてはいけない。それはずっと詩亜も気にかけてきたこと。
「笑止千万ね。何もないのね。将来の夢も、目標も、何ひとつ」
黒木先生は、自分の言っていることを、露ほども疑っていない。その傲慢さが何より恐ろしかった。
「私たち音楽に精通する者はね、自分の人生の全てを賭けて闘っているの。血の滲むような場所でね」
丸ちゃんは俯いている。
「だから、あなたみたいな人が隣にいると、あの子の足枷になるのよ」
わかるかしら、と先生が問いかけ、一度言葉を切る。
「別れなさい。それが、あの子のためよ」
その一言が、詩亜の奥にあった何かを、勢いよく突き動かした。
――しあちゃんのとなり。
幼稚園の頃に、画用紙に書いた辿々しい文字。丸ちゃんは、将来の夢をそれしか書けなかった。発表会の客席の一番前で、口をぽかんと開けて、こちらを見上げていた幼い丸ちゃん。
気がつくと、走り出していた。
「もう、やめてっ……!」
二人の間に体ごと割り込む。丸ちゃんを背に庇い、先生を見上げた。震えた声は続かない。代わりに、堪えていたものが堰を切ったように頬を伝っていく。
レッスン室では一滴も零れなかった涙が、今は止めどなく溢れてくる。
「丸ちゃんを、いじめないで!」
子供のように、しゃしゃくりあげていた。みっともないと頭のどこかでわかっていても、止まらなかった。




