65話
「ピアノは、ちゃんと弾けてるの?」
と、訊かれた時には胸を一瞬、震わせたがそこはさりげなく受け答えして事なきを得た。
今日くらい、黒木蘭子の顔は思い出したくない。
食後、母が押し入れの奥から古びたアルバムを引っぱり出してきた。部屋を整理していたら出てきたのだという。千葉みなとにあった実家の面影に、詩亜の顔は自然と綻んだ。
「ほら見て。あんたたちが、ちっちゃかった頃の」
ページを捲るたびに、色の褪せた写真の中で幼い自分が笑っていて、その隣にはいつも、当たり前のように丸ちゃんがいた。七五三も、夏祭りも、近所の公園も。二人はどの一枚でもぴったりくっついている。
ある一枚で、指が止まる。
幼稚園のお遊戯会だろうか。色画用紙を誇らしげに掲げた園児たちが、ずらりと並んでいる。お花屋さん。ケーキ屋さん。電車の運転手さん。つたないクレヨンで書かれた、将来の夢が所狭しと咲いている。
その列の端で、丸ちゃんだけが一人立っていた。
掲げた画用紙には、絵も大した文字もない。隅の方に小さくひらがなで、こう書いてあるだけだった。
――しあちゃんのとなり。
それが幼い丸ちゃんの掲げた、夢だった。
「一丸くん、何にも思いつかなかったんでしょうねえ」
小さい子の書く文字は愛おしい。母も同じ気持ちなのか、一生懸命に話そうとしていた幼い頃の二人を思い出す、と懐かしそうに微笑んで、当時の思い出を色々と話してくれた。
詩亜は、その文字から目を離せなかった。
玄関の戸が開く音がした。ただいま、という声とともに、スーツ姿の父が、寒さに肩を縮めて入ってきた。
「おお! 詩亜。なんだ、来てたのか」
言葉は素っ気ないが、ネクタイをゆるめる横顔からは、もれなく嬉しさが溢れている。父は温め直したシチューに口をつけ、それきり多くは喋らない。昔から、必要なこと以外は言わない人だ。それでも、言葉の足りないぶんの愛情は、いつだってちゃんと届いている。
もう一枚、アルバムを捲る。初めてのピアノ発表会だった。舞台の上で、こちこちに固まった顔のままお辞儀をする幼い詩亜がいる。
「詩亜。緊張で手が震えてるから、お母さんの方が緊張したわー」
「でも、弾き始めたら、ものすごく上手だったよな〜」
ふと気づくと、隣に腰を下ろした父が、母の言葉を継ぐ。あの日のことを、二人はまるで昨日のことみたいに語り合う。
「あの曲、何だったかしら。ほら、ちょうちょの」
「ちがう、きらきら星だ」
「そうそう、それよ」
二人して、ありもしない記憶の隙間を埋め合っている。あの頃の話になると、母の声は少しだけ高くなり、無口な父までが口を挟んでくる。
――私には、ピアノで喜んでくれる人がいる。
いつの間にか、その語らいの中に自分も溶け込んでいた。




