63話
次の日の朝、熱が出た。
心と体は地続きなのかもしれない。夜通し思い悩んだせいだろうか。起き上がろうとしても、視界がぐらりと傾いた。額に触れると、火がついたように熱い。
そこからの三日間は、ほとんど覚えていない。夢と現実の境を行き来していた。
寮母さんが連絡してくれたのか、母が駆けつけてくれた。冷たいタオルを額に乗せ、汗を拭いながら、ぽつりぽつりと話しかけてくる。
「一丸くんとは、うまくいってるの? あの子、元気にしてる?」
幼い頃からその成長を間近で見てきた母にとって、丸ちゃんは今でも、近所の可愛い男の子なのだ。詩亜は熱に紛らせて、曖昧に頷くだけにした。
「お父さんも心配してたわよ。無理に音楽続けなくてもいいんだからね」
音楽にはお金がかかる。レッスン代、楽譜、コンクール、そして、この学校の寮の費用。共働きの両親は昔から、それを一言も惜しいとは言わなかった。
その事実が火照った体に、じりじりと重くのしかかってくる。
ますます、自分はこんな時に何をやってるんだという気持ちに苛まれる。
丸ちゃんの声が、聞きたかった。
けれども、幾度も枕元の携帯へ手を伸ばしかけては、その指を力なく引き戻した。
四日目の朝、ようやく熱は引いた。
体は驚くほど軽くなったが、その分、頭の芯が空っぽになったようなに、ぼんやりとしていた。風邪を理由に延期したレッスンが、今日の午後に組み直されていた。
万全からは程遠い。それでも、これ以上甘えるわけにはいかなかった。
予感は、残酷なほど的中した。
寝込んでいた数日間、ピアノの鍵盤にはほとんど触れていない。指は他人のもののように強張り、あちこちでもつれた。弾き始めてすぐに、背後に立つ黒木先生の気配が、一音ごとに張り詰めていくのを肌で感じた。
最後まで弾かせてさえもらえなかった。
「もう、いいわよ」
ピアノの音色がブツリと途切れ、たちまち静寂に支配された。
黒木先生はしばらく何も言葉を発さなかった。その重い沈黙が、どんな叱責よりも辛い。
「熱は、もう、平気なの?」
「……はい」
「そう。じゃあ、本番でも、熱のせいにはできないわね」
今までの厳しさとは逆に、寄り添うような雰囲気が、かえって不気味で怖かった。
だめだ。顔を上げることもできず、返す言葉も弁解も、何ひとつとして持ち合わせていなかった。
「来週、もう一度だけ聴きます。それで、何も変わっていなかったら――今後の指導をあなたのご両親と相談することにします」
事もなげに、黒木先生は楽譜を閉じる。
「コンクールに出るのも、出ないのも、あなたが決めること。私は覚悟のない人に付き合っている暇はないの」
レッスン室を出ても、しばらく足は動いてくれなかった。
あの黒木蘭子が、見放そうとしている。その意味を考えまいとしても、考えてしまう。あの人に見限られて、それでもピアニストとして、生きていけるのだろうか。
廊下の窓越しに冬の陽が、痩せた光を投げかけ、冷たい床に細長い影を落としていた。




