62話
駅前のひさしの下で、段々と雨脚は強くなっていく。路面が濡れ、アスファルト独特の湿った匂いが鼻腔をかすめた。
二人共、傘は持っていなかった。
「……丸ちゃん。雨、降ってきたし。今日はここでいいよ」
ようやく口にした言葉は自分でも驚くほど、素っ気なかった。これ以上、沈黙を背中に貼り付けたまま隣にいるのが耐えがたい。早く、独りになりたかった。
少しの間、丸ちゃんは黙ってから呟いた。
「……もう暗いし。送ってく」
言い終えるや否や、駅前のコンビニへ向かって足早に遠ざかっていく。制止する間もなかった。
戻ってきた手には、二本のビニール傘。無言で差し出された一本を受け取ると、丸ちゃんは早足に歩き始める。
二本の傘が、半歩の距離を置いて夜道に刻まれる。雨の音が傘を叩き、二人の隙間を埋めていた。
丸ちゃんには、何度もこうして寮まで送ってもらっていた。どれほど夜が更けても、必ず寮まで送ると言ってきかない。心配だから、と。
いつからか、二人は互いを縛り合うことでしか繋がっていられなかった。連絡先を消したのも、送ると固執するのも、根っこは同じなのかもしれない。
雨の中、喧嘩を引きずったまま、濡れた傘を二本さして、二人はいつもと変わらぬ道を歩いている。
街灯の薄明かりの中、寮の門が見えた。濡れた路面に門灯が滲んでいる。
「……ありがとう。気をつけて、帰ってね」
精一杯の声音で告げる。
「ああ」
丸ちゃんはそれだけ言うと、すぐに背を向けた。
雨音に紛れ、その声はいつもよりずっと遠くの方から届いたように感じられた。
傘を打つ湿った音が、いつまでも鼓膜の奥で鳴っていた。
部屋に帰り着くと、身体中から力が抜け落ち、濡れた髪のまま、詩亜はベッドへ身を投げ出した。
窓の外は、今も雨。
耳にこびりついた雨音から逃げたくて、必死にドライヤーの熱を当てる。
――またやってしまった。
わかり合いたいだけなのに。どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
ぶつかるたびに思い知らされる。自分の、どうしようもなさ。それなのに、息が詰まるほど苦しい胸の内で、好きだという想いだけは、少しも揺らがない。
好きなのに、隣にいると苦しくなる。
夏休み、あの花火の夜に始まり、まだ半年も経っていないのかと思うと、ぞっとする。
あの頃はただ隣にいるだけで満たされていたはずなのに。どうして、こんなにも欲ばりになってしまったのだろう。自分は今、どんつきにいるのか。
丸ちゃんの優しさを、あって当然のものとしていたのかもしれない。
遅くなれば必ず寮まで送ると言った。今日だって、あんな喧嘩の後でさえ、そうだった。傘だってそうだ。丸ちゃんはいつも、何かしら差し出してくれる。
それを受け取ることに、すっかり慣れきっていた。甘えて、縛りつけて、その優しさに寄りかかるばかりで。
ピアノも、恋も、両手いっぱいに抱えようとして、どちらも指の隙間からすり抜けていく。
――全部、私のせい。
枕元の携帯を手に取る。
着信は、ない。メールも、ない。画面は、虚しく、時間だけを示している。
丸ちゃんの声を聞かずに眠る夜なんて、いつ以来だろう。
――そんなに彼のことが大事?
黒木先生の問いかけが、いつまで心にいる。
わからない。ピアノの道も、どうすればいいのか、何もわからない。
考えれば考えるほど、降りやまない雨の音に、負の感情ごと引きずり込まれていくようだった。
頭の中で、鍵盤の一音が反響した。
--ラ。
気を紛らわしたくて、窓の外に耳を澄ました。
雨は下手くそに屋根を叩く。
--ああ。
何だろうか、この気持ちは。明日は恐怖のレッスンだというのに。
独りぼっちの夜が。
--ただ、さみしい。




