56話
「……もういい」
普段より一段と低い声が床に落ちる。怒鳴られるより、不気味に漂う静けさの方が、ずっと怖かった。
黒木先生は細い指でこめかみを押さえ、長い間黙り込んでいた。やがて、詩亜をじっと見つめる。
「あなた、最近、何か抱えてるでしょう」
心臓を力強く掴まれたような感覚がした。
「音を聴けばわかる。指は動いている。音符も合っている。でも、肝心の中身が上の空。ここにいて、ここにいない」
鷲掴みに図星を突かれる。
「断っておくけど、私はあなたの私生活に興味はないの。男だか、何だか知らないけれど」
男、という一言に、詩亜の肩がびくつく。
「そんなもの、鍵盤の前に持ち込まないで。あなたが今、立っているのが、どういう場所か、わかっている?」
すみません、が声にならなかった。
必死に頑張っているつもりだ。毎日誰よりも早く練習室に入って、指が痙攣するほど、鍵盤に向かっている。サボってなんか、いない。
でも、やっぱりわからなかった。
好きな人のことを考えるなと言われて、考えずにいられる方法なんて、知らない。
「今週はもういい。何度やっても無駄のようだから」
黒木先生は楽譜を閉じると、「そんなに彼のことが大事? 人生を賭けるほどに?」と冷ややかに問いかけ、背を向けてしまった。
「ピアノは休みなさい。来週また聴かせて。……それまでにその顔をなんとかしてくること」
レッスン室を出る時、詩亜の手は、まだ小刻みに震えていた。
帰路を歩きながら、衝動的にワン切りをしてみたが、応答はなかった。きっと、バイトの最中なのだろう。
寮へ戻り、代わりに携帯を手に取って短く指を走らせた。
『今週の日曜、何してる?』
しばらくして、返信が届く。
『日曜? 詩亜、レッスンじゃなかったか?』
『休みになった。だから会いたい』
送信した直後、着信音が重なる。
「休みって、どうしたんだ?」
「ちょっとね。いいから、日曜空けておいてよ」
「ああ、空いてるけど」
少し考えるような間があって、丸ちゃんは思い出したように声色を明るくさせた。
「ああ、そうだ。ちょうどいいや。今、千葉そごうで、詩集の展示みたいなの、やってんぞ。詩亜の好きな作家の人の」
「えっ、ほんと?」
「おう。たまには地元に戻ってくるのも、いい息抜きになるんじゃん?」
その何気ない気遣いが、今日一番、心に沁みた。
迎えた日曜日。千葉駅の改札を抜けると、休日の人波がむっとする熱気を運んできた。
大きな紙袋を提げた家族連れや、制服姿のまま目的もなくたむろする学生たち。どこを切り取っても人の気配で溢れている。
久しぶりに触れる地元の賑わいは、東京で感じる張り詰めた空気とはどこか違っていた。この雑然とした呼吸の中に身を置くだけで、強張っていた肩の荷がふわりと軽くなる。




