表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠け星アルフェラッツ もしもダビデ像が服を着てたら  作者: Y.Itoda
第三章 二〇〇〇年〜 遠江詩亜
PR
56/86

56話

「……もういい」


 普段より一段と低い声が床に落ちる。怒鳴られるより、不気味に漂う静けさの方が、ずっと怖かった。

 黒木先生は細い指でこめかみを押さえ、長い間黙り込んでいた。やがて、詩亜をじっと見つめる。


「あなた、最近、何か抱えてるでしょう」


 心臓を力強く掴まれたような感覚がした。


「音を聴けばわかる。指は動いている。音符も合っている。でも、肝心の中身が上の空。ここにいて、ここにいない」


 鷲掴みに図星を突かれる。


「断っておくけど、私はあなたの私生活に興味はないの。男だか、何だか知らないけれど」


 男、という一言に、詩亜の肩がびくつく。


「そんなもの、鍵盤の前に持ち込まないで。あなたが今、立っているのが、どういう場所か、わかっている?」


 すみません、が声にならなかった。


 必死に頑張っているつもりだ。毎日誰よりも早く練習室に入って、指が痙攣するほど、鍵盤に向かっている。サボってなんか、いない。


 でも、やっぱりわからなかった。


 好きな人のことを考えるなと言われて、考えずにいられる方法なんて、知らない。


「今週はもういい。何度やっても無駄のようだから」


 黒木先生は楽譜を閉じると、「そんなに彼のことが大事? 人生を()けるほどに?」と冷ややかに問いかけ、背を向けてしまった。


「ピアノは休みなさい。来週また聴かせて。……それまでにその顔をなんとかしてくること」


 レッスン室を出る時、詩亜の手は、まだ小刻みに震えていた。




 帰路を歩きながら、衝動的にワン切りをしてみたが、応答はなかった。きっと、バイトの最中なのだろう。

 寮へ戻り、代わりに携帯を手に取って短く指を走らせた。


『今週の日曜、何してる?』


 しばらくして、返信が届く。


『日曜? 詩亜、レッスンじゃなかったか?』


『休みになった。だから会いたい』


 送信した直後、着信音が重なる。


「休みって、どうしたんだ?」


「ちょっとね。いいから、日曜空けておいてよ」


「ああ、空いてるけど」


 少し考えるような間があって、丸ちゃんは思い出したように声色を明るくさせた。


「ああ、そうだ。ちょうどいいや。今、千葉そごうで、詩集の展示みたいなの、やってんぞ。詩亜の好きな作家の人の」


「えっ、ほんと?」


「おう。たまには地元に戻ってくるのも、いい息抜きになるんじゃん?」


 その何気ない気遣いが、今日一番、心に沁みた。




 迎えた日曜日。千葉駅の改札を抜けると、休日の人波がむっとする熱気を運んできた。

 大きな紙袋を提げた家族連れや、制服姿のまま目的もなくたむろする学生たち。どこを切り取っても人の気配で溢れている。

 久しぶりに触れる地元の賑わいは、東京で感じる張り詰めた空気とはどこか違っていた。この雑然とした呼吸の中に身を置くだけで、強張っていた肩の荷がふわりと軽くなる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ