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欠け星アルフェラッツ もしもダビデ像が服を着てたら  作者: Y.Itoda
第三章 二〇〇〇年〜 遠江詩亜
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55話

「な、なんで」


「なんでって。学内演奏、聴けばわかるよ」


 彼女は大切そうにケースを抱き直し、悪戯っぽく微笑んでみせた。


「わたしたち、演奏家だよ? あんな恋する乙女みたいな音、出されたら、さすがに、ね」


 頬にのぼった熱は耳まで及んだ。逃げ場を探すように。

 音に出ていたのだ。いつの間にか。だけど、黒木先生に『何も乗っていない』と言われた全く逆のものが滲んでいたのかと考えると、よくわからなくなる。


「いいなあ。わたしも、好きな人いるんだけどさ」


 彼女が、ぽつりと言った。


「片思いなんだよね。もう、半年くらい」


「そう、なんだ」


「だめだよね。練習してても、その人のことばっかり考えちゃう」


 二人でしばらく、恋の話をした。詩亜はこういう話が、昔から苦手だった。なのにこの子が相手だと、不思議とぽろぽろ言葉が出てくる。


「……でもさ。私、最近自分でもおかしいなって思うんだ」


 気づけば打ち明けていた。


「相手が、今、何してるのか、ずっと気になっちゃって。誰かと話してないかな、とか。他の女の子と一緒にいないかな、とか」


「うんうん」


「この前なんて、携帯から女の子の連絡先、全部消しちゃった」


「……えっ」


 友達の相槌が止まった。


「全部?」


「うん、全部」


「うわ……それは、ちょっと」


 メガネの奥の目が、引いている。


「ごめん、詩亜ちゃん。それ、けっこう猟奇的だよ」


 はっきり言われて、思わず笑ってしまった。


「でもさ、わかるよ。わたしも、好きな人のこと、ずっと見てたいもん。なんならトイレまでついて行きたいくらい」


「……それは、さすがに、ないかな」


「ええ、そう?」


 けらけらと友達が笑う。その軽さにつられて、詩亜も笑った。自分だけじゃないんだ。そう思うと、少しだけ心が軽くなる。

 でも。


「……ねえ」


 不意に友達が、笑うのをやめた。冬枯れの庭の、ずっと向こうを見るような目で。


「その先って、どんな未来が、あるのかな」


 答えを、求めているわけではないようだった。ただ、風が髪を撫でていくような淡い問いかけ。

 詩亜は何も言えなかった。その先の未来なんて、考えたこともなかったから。

 冬の風が、二人を包んで過ぎ去る。

 やがて、笑みを浮かべた友達は、ヴァイオリンのケースを抱えて立ち上がった。


「ま、お互い、がんばろ。ね?」


 柔らかな日差しの中、振り返る彼女の表情はどこまでも澄んでいる。


「黒木蘭子がナンボのもんじゃい!」


 拳を掲げるその仕草は、頼もしいくらいに力強い。


「わたしたち、演奏家なんだから」


 その一言が、身体の芯をすっと貫いて、背筋を伸ばさせた。

 そうだ。自分にはピアノがある。恋に溺れて見失っていいものじゃないはずだった。


 ……わかっている。頭ではちゃんとわかっているのに。


 四六時中、一緒にいたいと思うことは。

 そんなにも、いけないことなのだろうか。




 その日の午後のレッスンは、いつにも増して悲惨だった。

 弾き始めて、まだ、いくらも経たないうちに、黒木先生の手が、ぴたっと宙で上がった。止めろ、の合図だった。

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