55話
「な、なんで」
「なんでって。学内演奏、聴けばわかるよ」
彼女は大切そうにケースを抱き直し、悪戯っぽく微笑んでみせた。
「わたしたち、演奏家だよ? あんな恋する乙女みたいな音、出されたら、さすがに、ね」
頬にのぼった熱は耳まで及んだ。逃げ場を探すように。
音に出ていたのだ。いつの間にか。だけど、黒木先生に『何も乗っていない』と言われた全く逆のものが滲んでいたのかと考えると、よくわからなくなる。
「いいなあ。わたしも、好きな人いるんだけどさ」
彼女が、ぽつりと言った。
「片思いなんだよね。もう、半年くらい」
「そう、なんだ」
「だめだよね。練習してても、その人のことばっかり考えちゃう」
二人でしばらく、恋の話をした。詩亜はこういう話が、昔から苦手だった。なのにこの子が相手だと、不思議とぽろぽろ言葉が出てくる。
「……でもさ。私、最近自分でもおかしいなって思うんだ」
気づけば打ち明けていた。
「相手が、今、何してるのか、ずっと気になっちゃって。誰かと話してないかな、とか。他の女の子と一緒にいないかな、とか」
「うんうん」
「この前なんて、携帯から女の子の連絡先、全部消しちゃった」
「……えっ」
友達の相槌が止まった。
「全部?」
「うん、全部」
「うわ……それは、ちょっと」
メガネの奥の目が、引いている。
「ごめん、詩亜ちゃん。それ、けっこう猟奇的だよ」
はっきり言われて、思わず笑ってしまった。
「でもさ、わかるよ。わたしも、好きな人のこと、ずっと見てたいもん。なんならトイレまでついて行きたいくらい」
「……それは、さすがに、ないかな」
「ええ、そう?」
けらけらと友達が笑う。その軽さにつられて、詩亜も笑った。自分だけじゃないんだ。そう思うと、少しだけ心が軽くなる。
でも。
「……ねえ」
不意に友達が、笑うのをやめた。冬枯れの庭の、ずっと向こうを見るような目で。
「その先って、どんな未来が、あるのかな」
答えを、求めているわけではないようだった。ただ、風が髪を撫でていくような淡い問いかけ。
詩亜は何も言えなかった。その先の未来なんて、考えたこともなかったから。
冬の風が、二人を包んで過ぎ去る。
やがて、笑みを浮かべた友達は、ヴァイオリンのケースを抱えて立ち上がった。
「ま、お互い、がんばろ。ね?」
柔らかな日差しの中、振り返る彼女の表情はどこまでも澄んでいる。
「黒木蘭子がナンボのもんじゃい!」
拳を掲げるその仕草は、頼もしいくらいに力強い。
「わたしたち、演奏家なんだから」
その一言が、身体の芯をすっと貫いて、背筋を伸ばさせた。
そうだ。自分にはピアノがある。恋に溺れて見失っていいものじゃないはずだった。
……わかっている。頭ではちゃんとわかっているのに。
四六時中、一緒にいたいと思うことは。
そんなにも、いけないことなのだろうか。
その日の午後のレッスンは、いつにも増して悲惨だった。
弾き始めて、まだ、いくらも経たないうちに、黒木先生の手が、ぴたっと宙で上がった。止めろ、の合図だった。




