54話
冬。
窓の外では、枯れ果てた街路樹が、冷え切った北風に震えていた。
レッスン室には、鍵盤の音が途切れた後の静寂が満ちている。
「――違う。何度言わせれば気が済むの」
その声が、ようやく響きかけた余韻を無残に断ち切る。
伸ばした詩亜の指先が、白黒の鍵盤の上でぴくりと止まる。室内の空気が、先ほどよりも一段低く張り詰める。グランドピアノの向こう側で、黒木先生が腕を組んで立っていた。鋭い眼光は、詩亜のわずかな迷いさえも見逃さない。
すっきりと短く整えられたショートヘア。隙のない、凛とした立ち姿は美しいけれど、人を寄せ付けない冷ややかな温度を纏っている。
「あなたの音には、何も乗っていない。ただ譜面を指がなぞっているだけ。そんなものは、音楽とは呼べないわ」
「……すみません」
かろうじて、謝罪の言葉だけを声にした。
黒木蘭子。メディアを賑わせる高名なピアニスト。その指導は容赦がないことで知られていた。それでも見込まれ、彼女に師事した者は、例外なく一流の階段を駆け上がっていく。
二か月後に控えたコンクール。そこで結果を残せば、正式に彼女の弟子として認められる。
喉から手が出るほど欲しかった、かつてない好機。なのに。
「練習不足ではないわね。技術的には、及第点。……けれど、音楽が死んでいる」
先生の言葉は、まるで鋭利なナイフのように、詩亜の胸の内を抉る。
「どこか遠くを見ながら、機械を動かしているみたい。あなた、本当にピアニストを目指しているの? それとも、何かの片手間に鍵盤を叩いているつもり?」
「……ちがいます」
必死に絞り出した声さえも、どこか頼りなく響く。否定はしたけれど、自分自身でもわかっていた。今の自分は、どこか他の場所に意識を囚われている。
「コンクールまで、もう二ヶ月よ。その指先に、命を宿せることができないのなら、最初から期待させないでくれる?」
黒木先生はそれ以上何も言わず、背を向けて窓辺に立った。
鍵盤に触れるたびに重くなる指先が、絡まっては旋律が色を失っていく。
どうして、こんなにも空回りしてしまうのか。
その理由が、まだ詩亜には、わからなかった。
昼休みの中庭は、冬にしてはめずらしく暖かかった。
雲ひとつない青空から、柔らかな日差しが降りそそいで、ベンチに座っているだけで、うとうとと眠くなる。コートもいらないくらいの、穏やかな陽気だった。
ぴるる、と、ワンコール携帯が鳴った。丸ちゃんからだ。詩亜は少し口元をゆるめて、メールを打つ。授業の合間の短いやり取り。それだけで強張っていた肩から、すっと力が抜けた。
「ねえ、詩亜ちゃん」
顔を上げると、ヴァイオリンケースを抱えた友達が、隣に腰を下ろすところだった。メガネの奥の、人懐っこい目。ずけずけと物を言う子で、でも、不思議と嫌味がない。
「詩亜ちゃんってさ、彼氏いるでしょ」
「……えっ」
「しかも、結構、ラブラブな」
どきりとした。隠していたわけではない。ただ、誰にも、言っていなかっただけで。




