表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
欠け星アルフェラッツ もしもダビデ像が服を着てたら  作者: Y.Itoda
第三章 二〇〇〇年〜 遠江詩亜
PR
54/86

54話

 冬。


 窓の外では、枯れ果てた街路樹が、冷え切った北風に震えていた。

 レッスン室には、鍵盤の音が途切れた後の静寂が満ちている。


「――違う。何度言わせれば気が済むの」


 その声が、ようやく響きかけた余韻を無残に断ち切る。

 伸ばした詩亜の指先が、白黒の鍵盤の上でぴくりと止まる。室内の空気が、先ほどよりも一段低く張り詰める。グランドピアノの向こう側で、黒木先生が腕を組んで立っていた。鋭い眼光は、詩亜のわずかな迷いさえも見逃さない。

 すっきりと短く整えられたショートヘア。隙のない、凛とした立ち姿は美しいけれど、人を寄せ付けない冷ややかな温度を(まと)っている。


「あなたの音には、何も乗っていない。ただ譜面を指がなぞっているだけ。そんなものは、音楽とは呼べないわ」


「……すみません」


 かろうじて、謝罪の言葉だけを声にした。

 黒木蘭子。メディアを賑わせる高名なピアニスト。その指導は容赦がないことで知られていた。それでも見込まれ、彼女に師事した者は、例外なく一流の階段を駆け上がっていく。

 二か月後に控えたコンクール。そこで結果を残せば、正式に彼女の弟子として認められる。

 喉から手が出るほど欲しかった、かつてない好機。なのに。


「練習不足ではないわね。技術的には、及第点。……けれど、音楽が死んでいる」


 先生の言葉は、まるで鋭利なナイフのように、詩亜の胸の内を(えぐ)る。


「どこか遠くを見ながら、機械を動かしているみたい。あなた、本当にピアニストを目指しているの? それとも、何かの片手間に鍵盤を叩いているつもり?」


「……ちがいます」


 必死に絞り出した声さえも、どこか頼りなく響く。否定はしたけれど、自分自身でもわかっていた。今の自分は、どこか他の場所に意識を囚われている。


「コンクールまで、もう二ヶ月よ。その指先に、命を宿せることができないのなら、最初から期待させないでくれる?」


 黒木先生はそれ以上何も言わず、背を向けて窓辺に立った。

 鍵盤に触れるたびに重くなる指先が、絡まっては旋律が色を失っていく。

 どうして、こんなにも空回りしてしまうのか。

 その理由が、まだ詩亜には、わからなかった。




 昼休みの中庭は、冬にしてはめずらしく暖かかった。

 雲ひとつない青空から、柔らかな日差しが降りそそいで、ベンチに座っているだけで、うとうとと眠くなる。コートもいらないくらいの、穏やかな陽気だった。

 ぴるる、と、ワンコール携帯が鳴った。丸ちゃんからだ。詩亜は少し口元をゆるめて、メールを打つ。授業の合間の短いやり取り。それだけで強張っていた肩から、すっと力が抜けた。


「ねえ、詩亜ちゃん」


 顔を上げると、ヴァイオリンケースを抱えた友達が、隣に腰を下ろすところだった。メガネの奥の、人懐っこい目。ずけずけと物を言う子で、でも、不思議と嫌味がない。


「詩亜ちゃんってさ、彼氏いるでしょ」


「……えっ」


「しかも、結構、ラブラブな」


 どきりとした。隠していたわけではない。ただ、誰にも、言っていなかっただけで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ