49話
翌日の昼休みが、陽だまりのように過ぎていく。
「遠江さん! 落としたよ」
声をかけてきたのは、同じ学年の男子だった。手のひらに乗っているのは、詩亜のお気に入りのラッコのキーホルダー。鞄からこぼれ落ちていたらしい。
「あ、ほんとだ。ありがとう」
駆け寄って受け取りながら、「それ、池袋のやつだよね?」と町野君に言われ、つい話が弾んでしまう。詩亜は水族館に目がない。
「意外。遠江さんって、そんなに可愛らしく話すんだね」
考えてみれば、学校の男子と話すなんて、記憶にないくらい、ない。
町野君が柔らかく微笑んだ。すらりと伸びた背から見下ろす瞳には、吸い込まれるような吸引力がある。きっと、他の女子なら、これだけでコロッといってしまうのだろう。
でも、詩亜の胸は、不思議と凪いだままだった。
「なんか、演奏の時と全然違うから」
「そう、かな」
「遠江さん。ピアノ弾く時、格好いいからね」
「え……」
「そうだよ。去年の学内演奏会なんて、圧倒的な華があった。遠江さん、きっと素敵なピアニストになるよ」
「そ、そうなんだ」
演奏のことを、こんなふうに褒められたのは、初めてかもしれなかった。顔とか、性格とか、そういうことじゃなくて。自分が、一番大切にしているものを、まっすぐに。
ちょっぴり、嬉しい。
……でも。
ふと、思う。丸ちゃんは、一度も言ってくれたことがない。私のピアノのことを。
「何かあった?」
今度は胸を突かれた。町野君の視線が、まっすぐ刺さる。
「え、なんで?」
「んー。何だろう。なんていうか、遠江さんの佇まいが、急に大人っぽくなったというか」
咄嗟に、思い当たる節を探して――探さなければよかった、と思った。
丸ちゃんと初めて結ばれた、あの夜のことが、よぎってしまったから。
そういうことが、滲み出てしまうものなのだろうか。そう思うとかっと、頬が熱くなる。
「凛としてるとか言うと、ちょっと臭いかな」
町野君が照れくさそうに、小さく笑った。
「そんなことないよ。いつもと、変わんないって」
彼氏がいることは、親しい友人にさえ隠している。だから、ましてや、その先のことなんて、誰にも言えるはずがない。
「そういえば、遠江さん。今度の選考、受けるんだよね?」
「……うん。受けるだけ、受けてみようかなって」
作曲の課題で選ばれれば、定期演奏会で自分の曲を披露できる。詩を添えた、詩亜だけの一曲を。
「すごいなあ。やっぱ、本気で目指してる人は、違うよね」
町野君が、感心したように言う。その目に邪気はない。ただ素直に、すごいと思ってくれているのが伝わってきた。
「おれ、応援してるから。遠江さんの演奏、好きなんだ」
好き。
その一言に、どきりとする。けれど、それは町野君にときめいたからじゃない。
この言葉を聞くと、どうしたって丸ちゃんの顔が浮かんでしまう。あの夜の、馬鹿みたいにまっすぐな『愛してる』が、鮮やかに蘇る。
「……ありがとう」
何とか、それだけ返した。
町野君と別れ、独りになって。
そこでようやく、自覚する。




