48話
何だろう。ワン切りを返す。するとすぐに、今度は着信がきた。画面には『丸ちゃん』の文字。
詩亜は思わず口元を緩めて、通話ボタンを押した。
「どしたの、丸ちゃん」
『……いや。やっぱ、声、聞きたいと思って』
ぶっきらぼうな声が、耳元で言う。
『どっちみち、詩亜に起こされるしな』
「当たり前でしょ!」
笑ってしまった。
結局私たちは、ワン切りだけでは終わらず、毎晩電話をしている。毎日、私が好きな人の声を聞きたいから。
明日も学校なのに。電話代だって、馬鹿にならないのに。
それでも毎日、繋がっていたかった。
今日見つけた言葉を、また一つ、教えてあげる。
『降りみ降らずみ』
気まぐれな雨。
こういった古い言葉を話すのは、いつからか二人の習慣みたいになっていた。勉強はからきしのくせに、何故かこういう話だけは面白がって聞く。ひょっとしたら意外にも、丸ちゃんは、私なんかよりもずっと、ロマンチストなのかもしれない。
『この季語みたいな言葉、詩亜みたいだな』
笑いながらぽつりとした丸ちゃんの声に、鼓動がびくりとした。
鈍感で、無神経なくせに。時々こうして、はっとするようなことを言う。
だから、油断ならない。
電話を切る頃には、雨の音も、いつの間にか、気にならなくなっていた。
いつの間にか、自分の日常の真ん中に、丸ちゃんがいる。
なのにどうして。
ふっと吐息がこぼれる。
--どんつき半ば。
そんな言葉を、私はノートに綴っている。
7:30AM。
まだ人のまばらな校舎に、詩亜は一番乗りに近い時間で着く。それは誰よりも早く練習室を押さえるため。国立市にあるこの音楽高校では、朝練が当たり前だった。
防音の小部屋にこもって、まずはバッハから朝は始まる。指先がまだ微睡んでいるうちに奏でる平均律は、頭の芯をゆっくりと解き明かしていく。一音ずつ、慈しむように。鍵盤の底まで指を沈めると、確かな手応えが指先に伝わった。
一限のソルフェージュは、神経を削る時間だ。壇上の先生が紡ぐ旋律を、五線譜の上に必死で写し取っていく。耳だけを頼りに音を追いかける。普通科の高校生たちが英語や数学の教科書と向き合っている頃、詩亜たちの一日は、その大半を、音という素材だけで編み上げていた。
四限の鐘が鳴ると、移動教室へ足早に向かう。楽典の教室は校舎の端にある。譜面とノートを抱え、廊下を小走りに駆ける。
12:15PM。
昼食は教室で皆と円を作り、購買のパンと紙パックのジュースで済ませる。他愛のないお喋りが弾む一方で、昼休みの半分は練習室へ吸い込まれていく者も多い。詩亜も、その例外ではなかった。
午後の授業の後には部活が待っている。合唱部で声を重ねる時間は、ピアノという孤独な対話とはまた違った。自分の声が、隣の誰かの声と混じり、いつしか境目がわからなくなる。そのひと時だけは、抱えているちっぽけな悩みを忘れていられた。
部活が終わっても、まだ終わらない。コールユーブンゲンの復習。リズムと、音程。基礎を、ひたすら繰り返した。
7:30PM。
ようやく重い鞄を背負い、校門へ向かう。
――こんな毎日を、自分は選び取ったのだ。




