38話
「あちし、ジュース買ってくる。自販機に」
ひとしきり花火を見たところで、トン子が立ち上がった。
「駿、荷物持ち。来て」
「え、僕も?」
「いいから来な。男手」
半ば引きずられるように、駿が梯子を降りていく。その姿が軒下に消える間際、駿がこちらを振り返ったような気がした。
気のせいだったのかもしれない。
部屋には、一丸と詩亜の、二人だけが残された。
花火の音だけが、ぽっかりと空いた間を埋めている。何か言わなきゃと思うほど、言葉が出てこない。隣にいる詩亜の存在が、やけに大きく感じられた。
髪の毛の淡い匂いが、涼やかな夜風に混じって、ふと鼻をかすめる。
「……ねえ」
先に口を開いたのは、詩亜だった。
「覚えてる? 中学んとき、私が言ったやつ」
「やつって」
「恋愛、絶対禁止」
花火が、一際大きく夜を裂いた。どん、と腹の底まで低い音が響く。
その光に照らされても、詩亜の表情はよく見えなかった。
「……ああ、言ってたな。そんなこと」
精一杯、何でもないふうを装って返す。けれど、心臓は、馬鹿みたいに早鐘を打ち続けていた。
「あれさ」
詩亜が、夜空を見上げたまま、言った。
「もう、時効かな」
花火の轟音に紛れて、消えてしまいそうな声だった。
一丸は、どう答えればいいのか言葉を探す。聞き間違いかとも思った。けれど、訊き返す勇気もなくて。ただ隣で、詩亜の横顔が花火の色に染まっていくのを、見つめることしかできなかった。
梯子を上ってくる、賑やかな足音が響く。トン子と駿が戻ってきたのだ。
その瞬間、詩亜がいつもの調子でぱっと振り返った。
「おそーい。何やってたの」
「売り切れだったから、コンビニまで行ってきた」
トン子が、両手いっぱいの缶ジュースを得意げに掲げる。そのまま部屋に上がるかと思いきや、もう一度、梯子を降りていった。
数秒間して、ぎしり、と妙な音がする。
見れば、トン子が、建設現場で使うような無骨な金属の梯子を肩に担いで、軒先に立てかけていた。
「行くよ!」
「は? どこに」
「屋根。上から見た方が、絶対いいって」
わざわざ持ってきたのか、それを。手慣れた様子で梯子を固定するトン子に、一丸は思わず腰が引けた。
「それ、大丈夫なのか?」
「何? もしかして丸ちゃん、ビってんの?」
いや、登ることに怖気づいているのではない。トン子の体重に屋根が耐えられるかが心配なんだ、とは、さすがに言えなかった。
普段は窓越しに眺めるだけの花火だが、天辺から観るのは初めてだ。
一人ずつ、梯子を伝って屋根によじ登る。トタンの表面は、昼間の熱をまだ少し残していて、手のひらにぬるい感触が伝わった。
四人で肩を並べて座る。
どん、と破裂音が大気で弾ける。刹那、夏の夜空を大輪の光が飾る。
誰も言葉を発さない。打ち上がる音が響く中、ただずっと、瞬く光を見つめていた。
一丸は、打ち上げそのものに感動していたわけではなかった。
ただ、この瞬間、四人が一箇所に留まっていることが奇跡のように思えた。部屋に漫画やゲームを揃えていたのも、理由をつけるなら、三人に必要とされている気がしたからだ。居心地の悪い高校生活の中で、愛想を振りまき、悪ふざけに乗り、誰にも本音を話せないでいた自分。
だからこそ、このひと時が心にしみた。
隣で詩亜が花火を見上げている。さっきの『時効かな』という声が、まだ耳の奥で微かに残っていた。それを確かめる勇気はないまま、その横顔が光に染まるのを、横目で追う。
目の前で煌めく火花は、あまりに儚く、美しい。自ずと、この四人の関係にそれを重ね合わせていた。
いつまでも、こうしていられたら。
そんなことを、柄にもなく思った。
そして――誰が予想できただろう。
この日のちょうど一年後。
まさか二人で、あの千葉ポートパークへ行くことになるなんて。




