35話
夕方だった。こんこん、と窓を叩く音がして、カーテンを開けると、坊主頭がこちらを覗き込んでいた。
「あちし」
いつもの調子だった。けれど、その頭は赤く染まっていた。下の階を指差して、「マチさん、今いる?」と訊いてくる。
「まだいるよ」
そう伝えると、トン子は「了解。久々だから挨拶してくる」と言い残し、梯子を降りていった。数秒後、一階で玄関のチャイムが鳴る。
わざわざ親に挨拶していく。そんな律儀さが、いつの間にか身についていた。一足先に社会の荒波へ出ていった者の、ささやかな成長を、垣間見た気がした。
部屋に戻ってきたトン子は、仕事帰りなのか、ダボついたシルエットのニッカポッカを履いていた。体格は一回り肉付き、バージョンアップした鮮やかな色の頭には、三本の線も剃り込まれている。
二人で、トン子が買ってきたコンビニのカツカレーを食べながら話した。彼氏と別れたのだという、いつものまるで他人事のような報告。
「丸ちゃんも、別れたんでしょ?」
どこかで噂を聞きつけたらしい。
不意にぶつけられたその言葉を誤魔化すように、デザート代わりだと差し出された大袋のスナック菓子へ手を伸ばした。乾いた欠片を、喉の奥へ強引に流し込む。
高校に入ってから、二人目だった。
相も変わらず付き合うという勝手がわからず、一、二回のデートで破局した最初の一人とは違って、二人目の子とは比較的長く続いた。でも、結局は同じ場所に辿り着いて、別れた。
「……超ウケる」
そう笑うトン子とは、やたらに話が合った。現場で鍛えられた、血肉の混じるバイオレンスな武勇伝に比べれば、自分の話なんて随分とちっぽけに思えたが、それでも、話さずにはいられなかった。
一丸はどこかで、二人で魔法の絨毯に乗って、朝まで世界中を駆け巡る、そんなロマンチックなデートを夢見ていた。アニメ映画みたいに。
元彼女の話をしているうちに、じわじわと、湿った感傷がこみ上げてくる。意外にも自分は、これほど寂しがり屋だったのか。
恋愛は、今つまんでいるスナック菓子みたいなものだった。一度食べ始めると止まらなくなって、気づけば、袋の中は空になっている。日々の、漠然とした将来への不安を、彼女という存在で紛らわせていただけなのかもしれない。
「それで結局、未遂だったんだ?」
一丸は短く頷いて、「それ以上聞くなって」とだけ返した。
元彼女とは、電車通学の相手に合わせて、わざわざ学校の最寄り駅で自転車を置き、手を繋いで一緒に登校するほどの仲だった。できる限り、一緒にいたかった。そうすべきだと、思っていた。
相手は優等生で、校内のミスコンにノミネートされるような、どこか特別な存在だった。当然、髪なんて染めていない。
A、キス。B、胸を触る。そこまでは、順調だった。だけど、Cで、自分はしくじった。
彼女は気にした素振りも見せず、聖母のような笑みで「大丈夫だよ」と言ってくれた。
その瞬間、何か喉に引っかかりを覚えた。何か、拭い去れない、違和感を。
お互い初めてだと、疑いもなく信じ込んでいた。でも、しくじった自分を手慣れた様子で慰めるその立ち振る舞いに、確信に近い何かが浮かび上がってしまった。
――この子は、初めてじゃないのでは。
そう気づいた途端、それを問いただす勇気すら持てない自分が、たまらなく小さくて、情けなかった。
「丸ちゃん、やっぱ超ウケるんだけど」
馬鹿にしたようなトン子の笑い声が、今の自分には、せめてもの救いだった。
ひとしきり笑ったあとで、トン子は空になったカレーの容器を片付けながら、思い出したように言った。
「あ、そうだ。来週さ、花火大会あるじゃん?」




