27話
殴るつもりは、なかった。
頭の中は真っ白で、逃げることも構えることも忘れて、ただ突っ立っていた。そのぼんやりとした街灯の中に、ふとあの場面が浮かぶ。
ベッドの上で、何度も繰り返した拳の動き。相手が踏み込んでくる、その一瞬に合わせて打つ。漫画の主人公が、いつも決めていた一撃。
矢刃が、間髪入れずに右の拳を振るってきた。
考えるより先に、体が動いた。
半歩、身を引く。その勢いのまま、右手のカウンター拳を叩き込んだ。鼻面を、一点に絞って。
ぐ、と鈍い音。
前に出てきた矢刃の勢いと、振り抜いた拳が、真正面でぶつかる。手の甲に、骨の硬い感触が伝わった。
鼻から赤い筋が顎へと垂れ落ち、矢刃はそのまま地面に崩れた。舞い上がった砂埃が、街灯の光の中で儚げに舞った。
……おっ。と、思わず気持ちが、小さな火花を散らしたように弾む。
荒い息と、耳の奥で心臓がうるさいくらいに鳴っている。じん、と痺れた手の甲だけが、確かな現実味を伝えていた。
漫画みたいに、決まった。ほんの一瞬だけ、自分が物語の中核に触れた気がした。
その背後で、複数の足音が重なる。
振り返れば、散ったはずの三つの影が、いつの間にか公園の入り口を塞いでいた。逃げたのではなかったのか。
じゃりじゃり、と砂を鳴らしながら、三人が駆け寄ってくる。倒れた矢刃と、呆然と突っ立つ一丸を見比べて、誰かが声を大きく上げた。
「株田、てめー」
罵声を受け、全てを悟った。
ここから先は、もう物語の筋書き通りにはいかないのだと。
対峙するのは三人。
--どうする? やるか。逃げるか。
じんわりと熱を持ち始める拳の中で、ほんの一瞬、心が揺れた。
漫画の主人公みたいに――なめた奴はぶっ飛ばす、とは思えなかった。頭の中の片隅で、ページの続きがめくれる音だけがしている。
最初の一撃は、頬に入った。意気揚々と踏み込んできた、体格のいい先輩の拳。
視界が、ぐらりと傾く。何が起きたのか、頭が理解するより先に、二発目が腹に沈んだ。息が、できない。膝から、砂の上に崩れ落ちる。
すぐに引き起こされ、次に出てきた先輩に、あっさりと柔道の技で背中を叩きつけられた。地面からの衝撃で息が詰まる。
あとは、雨あられの惨劇だった。
「二年が、ちょづいてんじゃねーよ!」
背中、肩、頭。どこに当たっているのかも、わからない。ただ、靴の先が、鈍く体にめり込むたびに、体が勝手に丸くなっていく。小学六年の時、自分が誰かにしたのと、同じこと。
声を、出さなかった。出したら、何かが決壊する気がした。
砂を噛んだ。じゃりっと、奥歯で鳴った。
誰かが笑っている。誰かが何か言っている。でも、先輩たちの声がうるさくて、言葉までは届かない。
ふと、さっきまでの自分を思い出した。漫画みたいに決まった、と浮かれていた自分。物語の主人公になれた気がした、あのひとときを。
馬鹿みたいだ。
自分が不様でちっぽけに思えた。
助けを求めて彷徨った視線の先に、ブランコがある。通り過ぎた時と同じ角度で、揺れることもなくそこにあった。これだけ世界が荒んでいるというのに、あの鉄の遊具は何もしてくれはしない。
孤独だった。世間は、殴られていることなんて、誰も知りもしない。
遠くで犬が鳴いた。路地で吠えた奴と同じ声だろうか。
意識があやふやで、痛みが遠のいていく。
それでも、ポケットの中にあるポケベルの感触だけが、固く、確かに存在を主張していた。
詩亜は、大丈夫だろうか。
身を丸め、ただ痛みを受け入れながら、考えていたのはそれだけだった。
もう視界もおかしい。終わりの見えない暴虐はいつまで続くのか。幻聴まで聞こえてきた。ポケベルか? 何か聞き覚えのある声だ。
「――やめろよ。丸ちゃんに手を出すな!」




