126話
「先輩。何かいいことありましたー?」
膝の上に伝票の束を載せた樹里が、助手席から見てくる。京葉道路から靖国通りへと折れたトラックは、絶え間なく車が流れる夜の都心を西へ進んでいた。
「……別に」
「えー、絶対ありましたって。顔に書いてありますもん」
視線を前に戻して黙っていると、樹里は犬みたいに鼻をひくひくさせ、服の匂いを嗅ぐような仕草をしてきた。
「なんか焦げ臭い?」
「そんな匂うか?」
作業服の袖口を鼻元へ寄せてみたが、自分ではよくわからない。
「女子の嗅覚を甘く見ちゃ駄目ですよ、先輩」
得意げに胸を張る後輩に観念して、ハンドルを握り直しながら答える。
「花火」
「この季節に? 誰とっすか」
赤信号で停まると、フロントガラスの向こうに、夕暮れの公園が重なった。
水飲み場の前にしゃがみ込んだ詩亜は、手持ち花火の先端をじっと見つめていた。小さな火の粒が爆ぜるたびに照らし出された横顔は、思っていたよりもずっと楽しそうだった。
昔もよく、この蛇口の前でやったよな。そう声をかけると、うん、と小さく頷いた。
幼い頃、手を引かれて見上げた港の大輪も。四人で肩を寄せ合い、屋根の上で並んで眺めた夏の光も。互いの距離が変わり、恋人として歩み始めた高校最後のあの季節も。
振り返るぬくもりの中には、いつだって詩亜がいた。
そして今年も、あれが最後の花火になった。
答えずにいるのを、樹里は都合よく受け取ったようだった。
「あ、彼女さんですか?」
「違う」
すぐに否定したことが、かえってまずかったのかもしれない。身を乗り出して顔を近づけてくる樹里が厄介だ。
「……あ、わかった。喧嘩して離れてた友達と仲直りしたとか? それとも、ええと……あ! 元嫁だ?」
「なんでそうなるんだ。結婚すらしてないだろ」
「いやいや、冗談ですって。でも、この仕事って多いじゃないですか。離婚して子供の養育費に追われている人」
元嫁、という響き。当たらずとも遠からずなのが、なおさら始末が悪い。
「お前の中で、おれはどういう設定なんだ」
樹里は無邪気に笑いながら、窓の外へ向き直った。
「先輩、新しい配送ルートはどうっすか? 夜の道でも走りやすいし、道も覚えやすいですよね」
市ヶ谷の外濠にかかる橋を渡る頃には、立ち並ぶビル群の隙間から眩しい明かりが目に付き始めていた。
「ただ、途中にある歌舞伎町はすごく物騒ですから気をつけてくださいね。この前も銃で人が死んだらしいですし」
知っている、とは口に出せなかった。ハンドルを握る指先に、いつの間にか力がこもっていた。
「ああ、そうそう。さくら通りの近くにある店が、ちょうどルートの中間なんですよ。いつもそこで休憩しながらパンを買うのが決まりなので、よろしくお願いしますね」
物騒だから気をつけろと言った舌の根も乾かないうちに、平然とこの調子だ。
「休憩の話をするには、まだ早すぎるぞ」




