125話
「暗い!」
詩亜の怒鳴り声が響く。
勢いよく立ち上がった詩亜は「暗い暗い暗い、暗い!」と立て続けに叫ぶやいなや、窓を思い切り開け放つ。そのまま部屋の隅に積まれていた求人雑誌の山を抱え上げると、ためらいもなく外へと放り投げた。ちょっと待て。ここは五階だぞ。
「おい、何してんだよ」
「何なの、さっきから否定ばっかして。人が提案してあげてるのに。それに何? この汚い部屋は。こんなの丸ちゃんの部屋じゃない」
制止の声が出るより早く、古い雑誌が、空のペットボトルが、床に脱ぎ捨てられていたジャージが、次々と暗がりへ消えていく。
慌てて窓辺へ駆け寄り外を見下ろすと、折悪く通りの街灯の下を歩いてくる人影があった。横から、詩亜がさらに何かを投げ落とす。
人影に向かって危ないと叫ぼうとしたが、喉からは「あ!」とも「わ!」ともつかない声しか出てこない。
直後、空き缶がアスファルトで派手に跳ねる音と共に、「きゃあっ!」という短い悲鳴が上がった。
「すみません! 猛獣が暴れてます! 危ないんで、そこどいてください!」
自分でも何を口にしているのかわからないまま、咄嗟に詩亜の細い腕を掴む。
「ばか、やめろって。人に当たったら死ぬだろ!」
「うるさい!」
振り返った詩亜の瞳には、薄い光を映した涙がなみなみと溜まっていた。
「丸ちゃんはそんな後先のことばっかり考えてるから、そんなんなんだよ! 失敗したっていいじゃん! 何を格好つけてるの? 駄目なら何度だってやってみればいいじゃん!」
腕に込めていた力が、ふっと抜けていく。
生じたわずかな隙に詩亜は台所へと向かい、冷蔵庫の扉に留められていた小さなヘアゴムをマグネットごとむしり取った。
「こんな物まで、いつまでも置いといて」
こちらを睨みつけると、詩亜は窓辺へ取って返し、それも外へ放った。
止めようと思えば止められたはずだった。けれど一丸は、小さな輪が闇に吸い込まれていくのを、ただ黙って見送っていた。
「……ばか」
絞り出すような呟きを残し、詩亜はその場にしゃがみ込むと、声を上げて泣き出してしまう。
弱った。何でいつもこうなる。
その隣に腰を下ろし、落ち着くのを待つよりほかに手がなかった。
そう泣くなよ、詩亜。
--知ってるだろ? おれは詩亜の涙の前では、うん、と言うことしかできなくなることを。
だからこそ別れを選んだあの日、詩亜は涙を見せなかった。
ひとしきり肩を震わせた詩亜は、そのままベッドへ倒れ込んだ。きっと今日は色々とあって、心も体も疲れ果ててしまったのだろう。ソファーで眠ると言っていたくせに、自分の定位置であるかのようにベッドを占領して、小さく規則正しい寝息を立て始めている。
一丸は苦笑してから、その華奢な肩までそっと布団を引き上げてやった。
ポケットの中で携帯のアラームが鳴り出し、すぐさま止めた。詩亜は身じろぎもしない。
そろそろ出勤の時間だ。
物音を立てずに身支度を整え、部屋を見渡す。思わず噴き出しそうになって、手で口を塞いだ。
あれだけ好き勝手に物を投げておきながら、テーブルの上のラッコのキーホルダーだけは、ちゃっかり残っていた。
ソファーに置かれた詩亜のバッグは、ファスナーが半分開いていた。中に、透明なトロフィーと、丸められた賞状の端が見える。
今日、何で来たのか、わかった気がした。
「ずっと夢だったもんな」
穏やかな寝顔に向かって、ぼそりと呟く。
玄関でもう一度だけ振り返り、起こさないようにドアを閉めた。
通りに散らばった物をゴミ袋へ拾い集めてから、職場へと足を進めた。明日はちょうどゴミの日だから、これでいい。




