122話
首にタオルを掛けて詩亜が戻ってきた。舞台用の濃い化粧はすっかり洗い流され、すっぴんの素顔は昔と何ひとつ変わっていない。あどけなさの残るその面立ちに少し安心する。
詩亜は何も言わなかった。濡れた髪を拭いながら、部屋の中を見渡している。買ってきたばかりのダボついたスウェットを揺らし、ダイニングの隅から窓辺へと歩いては、まるで部屋の内見でもしているかのように、じっくりと確かめていた。
何を言い出すのだろうと身構えていると、そんな緊張をすり抜けるように、詩亜はそっけなく口を開く。
「今日、ここ泊まってくから」
「はあ? 何でだよ」
「もう、あいつとは別れたし、家に戻って元彼が押しかけてきたら鬱陶しいでしょ。かといって実家に帰れば、親に余計な心配をかけちゃうし」
相変わらずの身勝手さに思わず溜息が出そうになる。あいつ、と、元彼、が同じ人物を指していることくらいは察せられたものの、それ以上の背景はまるでわからない。
それから詩亜の目がベッドの上で止まった。さっきまで潜り込んでいた布団は、起き抜けの形のまま、くしゃりと丸まっている。
「ああ、ベッドは後で整えるから」
取り繕うようにそう伝えた途端、詩亜はわかりやすく不機嫌に眉を寄せた。
「はあ? どこぞの女とイチャついたベッドで寝られるわけないでしょ。私はソファーで寝るから」
決めつけるような言いぐさに、何か言い返そうと喉まで言葉がせり上がったが、すんでのところで丸飲みした。下手に口を開けば、容赦のない拳が飛んでくることは目に見えている。
「お腹すいた」
こちらの葛藤など知る由もなく、詩亜は首のタオルを掛け直すと、迷いのない足取りで台所へ向かった。そうしてごく自然な仕草で、冷蔵庫の扉をすっと開ける。
開けた拍子に、扉のマグネットに挟まれたヘアゴムが揺れ、空っぽに近い中身が庫内灯の光にさらされた。マヨネーズと、飲みかけの炭酸のペットボトルが一本。後は冷えた空気がひっそりと溜まっているだけだ。
「何もないじゃん」
バタンと閉められた扉の音が、部屋に虚しく響く。ブーンと低く唸る冷蔵庫の作動音までもが、今日ばかりはやけに大きく耳に残っていた。
「買い出し、行くよ」
そう言って詩亜がこちらを振り返る。
「今から? おれはいいって--」
言い終わるより先に、腕を掴まれていた。風呂上がりの手は驚くほど温かい。
その後は、酒屋の看板を掛け替えただけのような近所の古ぼけたコンビニで、詩亜が弁当や飲み物、菓子パンにヨーグルトまで次々と放り込み、買い物籠はあっという間に一杯になった。
並んだレジでは、すぐ前の若いカップルがコンドームを買っていて、思わず詩亜と目が合ってしまい、慌てて互いに視線を逸らした。
家へと戻る際には、公園に寄って花火をした。コンビニの隅で詩亜が目ざとく見つけた花火のセットは、季節外れの売れ残りだからと店主のおじさんが半額にまけてくれた。
火をつけては、燃えかすを蛇口から流れる水へ浸していく。
幼い頃は夏になると、互いの家族で集まって、こうして公園の水飲み場の前で花火をしたものだった。
公園を出る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。




