119話
眠れぬ長い夜を何とかやり過ごし、頃合いを見計らって、今日は仕事に行く旨をセンター長へ電話で伝えた。樹里にはメールを送った。
表通りに出ると、新聞配達のバイクがやってきて、止まり、また走り去っていった。遠くの方からは電車が走る音が聞こえた。
もうそんな時間か。眠れなかろうが何だろうが、明日というやつは容赦なくやってくるらしい。
途中のコンビニでおにぎりを二つ買い、隅田川の川べりで一つ頬張った。調子を崩していた頃はよく散歩したと、以前センター長が話してくれたのを思い出す。
対岸のビルの高い窓から順に、橙色の陽射しがゆっくりと降りてきていた。世界が目覚めるその瞬間に、ここがいつか見たドラマの舞台に選ばれた理由が、少しだけわかるような気がした。
柵に肘をついて、フィルムに印字された手順でおにぎりを開けた。けれど、一つ目と同じように海苔が激しく破れた。日頃から仕事で運んでいる商品なのに、と苦笑が漏れる。痛む喉をなだめることもなく二つ目もぺろりと平らげた。
どうやらこの体はまだ、生きたいようだった。
あいつらも今頃、朝ご飯を食べているのだろうか。
このやさぐれた感情のまま流されてしまわずに済んでいるのは、高校時代の連中の思いに触れたからでもある。けれどソリーが死んでしまった今、進んで連絡を取る理由もなく、何より今さら合わせる顔がない。やはり自分は、独りなのかもしれなかった。
--友達とは、一体何なのだろう。
幼馴染で、別れた恋人でもある詩亜は、果たして友達と呼んでよいものなのか。
考えるほど訳がわからなくなってきた。できることなら皆、それぞれに思い描いた幸せな人生を送ってほしい。自分にはもう、漠然とした未来さえ見えなくなってしまったから。
顔を上げれば、光を浴びた水面が小さく揺れ動いている。樹里が対岸へ向かって自分の名を叫んだのは、確かこのあたりだった。
少し冷たさを増した風に吹かれながら、あの時、樹里に言われた馬鹿ヤローのゆくえを探していた。
部屋に戻って、先ほど携帯に届いていた母親からのメールを確かめた。
『年金の催告状が届いてます。どういうこと?』
完全に頭から抜け落ちていた。明日を生きるだけで手一杯な人間にさえ、社会の仕組みという現実は追い打ちをかけてくるのか。
探そうにも床一面に物が散らばり足の踏み場もない。仕方なく、足元から片付けを始めた。転がっていた空のペットボトルとレジ袋をまとめ、脱ぎ捨てられた服を部屋の隅へ寄せていく。そうしてようやく棚の前までの道筋ができた。
上段には、大切な物を入れたクッキー缶が置かれている。
蓋を開けると、保険証と印鑑、そして頼りない残高の通帳が収まっていた。年金手帳の姿はない。代わりに底から小さなラッコのキーホルダーがひょいと顔を出した。
それは詩亜と訪れた水族館で、お揃いで買ったものだった。




