117話
何から話そうか。詩亜の次に、原田の顔が浮かぶ。それから、いや、やはり日記にあった生姜焼き弁当は外せない。そんなことを巡らせながら、発信ボタンに指を当てる。
その時、正面から歩いてきた誰かと、肩が強くぶつかった。
すみません、と言いかけて顔を上げる。細い目を吊り上げたまま固まっている、見覚えのある顔があった。
先に声を漏らしたのはキツネ顔の方だった。
「か、株田……?」
中学のクラスメイトの、守屋か。岸本の取り巻きだった男だ。昔よりさらに人相が悪くなっていて、すぐにはわからなかった。
「お前、こんなところで何してやがる」
顔を合わせるなり噛みついてくる荒さは、相変わらずだった。高校の卒業式の日、矢刃の代わりに好き勝手殴ってきたのも、こいつだ。
あの日のことは忘れない。おまえは昔から気に入らなかったんだよ、と吐き捨てながらボコってきたが、気に入らなかったのはこっちの方だった。ゲボゲボうるさかった岸本よりも、その傍らでヘラヘラと薄笑いを浮かべながら金魚の糞みたいにへばり付いていた守屋の存在の方が、ずっと胸糞悪かった。
立ち上る嫌悪感に少し空気が張りつめたが、キツネ顔はしきりに背後を気にしていて、「どけ、今はそれどころじゃねえ」と怒鳴り散らすなり、人混みの隙間を押し分けるようにして去っていった。
一丸は深く息を吐き、道端の石段に腰を下ろした。いつの間にか辺りは、夜の街特有のガラの悪い連中でひしめき合っている。
けど。
心が落ち着いてくるにつれて胸騒ぎがした。あのキツネ顔の男が見せた焦り様が、どうにも頭から離れない。何か良からぬトラブルにでも足を踏み入れたのだろうか。
考えても仕方のないことだ。あのカスと関わりを持つ必要などない。そう自分に言い聞かせながら、一丸は改めて発信ボタンを押し込んだ。
携帯の呼び出し音が二回鳴った直後、乾いた大きな破裂音が二回続いた。キツネ顔の消えていった方角からだった。
――銃声?
テレビの画面越しに聞くことのあった音に似ていた。
ほんの数秒の間、通りから気配が消えた。行き交う足音も、客を引き寄せる声も、嘘のように全てが途絶えた。けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように元の騒々しさが街に戻ってくる。
何だろうか。身体の中の臓器をねっちょりと触られるようなこの不快感は。
音がした方へ足を向けると、そこには幾重もの人の垣根ができていた。「また事件か」「この前も人が刺されたらしいよ」と無遠慮な声が行き交っている。集まった野次馬たちの顔に、目立った驚きの色は見えない。あちこちから携帯のシャッター音が、喧騒の中へ紛れ込んでいた。
――ちょっと待て。嘘だろ。
人々の背を押し分けるようにして前へ出ると、路面の上に血を流したキツネ顔が横たわっていた。その体はもう、ぴくりとも動かない。投げやりに「もう死んでいるよ」と誰かが呟いた声が耳に届き、一丸の背筋を冷たい汗がゆっくりと伝っていく。
そのすぐ目と鼻の先だ。崩れ落ちるように倒れている、もう一人の姿がある。
――あの髪型は。
おい、ちょっと待て。呼吸が止まり全身の毛がよだつ。そこにもまた、人集りができていた。心臓を突く嫌な予感しか湧いてこない。
おい、退け。早くそいつの顔を見せろ。声に出して叫んだのかどうかも定かではないまま、頭の中が一気に掻き乱され、何から手を付ければいいのかさえ見失ってしまう。遠くの方からは、うっすらとサイレンの音が近づいている気もする。
幾つもの肩を掻き分けた先に、見下ろす人々の中心で、ソリーが倒れていた。名前を呼びかけると、「……丸ちゃん」と微かな声が返ってくる。
着ている服は重たく赤く濡れ、少しだけ開かれた目は焦点を結んでいない。わずかに動く唇だけが、まだそこに意識が残っていることを教えていた。
「何? お兄さんもスターダストのチンピラ? 早く逃げないと警察来るよ。救急車は呼んだけど」
あーうるせえ。おれはチンピラじゃねえ。今おれに話しかけるな。ガヤガヤガヤガヤと耳元を叩く無数の雑音が、心臓の鼓動を無暗に速めていく。
「す、すまねえ。兄弟……」
は? 何謝ってんだ。ソリーの顔から、みるみるうちに生気が失われていく。
「ヘ、ヘマをした」
黙ってろ。お前まで死ぬぞ。
「やっぱ、おれは……丸ちゃんの」
ソリーの目蓋は、もう開いていない。震える唇の端だけが、ほんの少しだけ持ち上がった。




