116話
遠江詩亜、と彼女の口から出たその名に、心臓が一つ小さく跳ねた。悪い気はしなかった。
mixiでも繋がっているのだと言い、彼女は携帯でコミュニティの画面を見せてくれた。詩亜は国際コンクールで入賞を果たし、ソロのリサイタルを重ねながら、ピアニストとしての道を着実に歩んでいるようだった。
液晶の中に立つ華やかな面影は遠い世界の出来事のようにも映る。もう手が届かない場所へ行ってしまった寂しさの陰で、自分のことのように嬉しくもある。
よかった。
素直に、そう思えた。
二人と別れた後、携帯に残されていたソリーからの招待メールを開き、mixiに登録をした。自分の目でもう一度、詩亜の今を確かめてみたかったのだ。慣れない操作に戸惑いながら画面を辿るうちに、いつの間にか招待主であるソリーのページへ行き着いていた。
意外にも日記は律儀に更新されていて、一番新しい投稿には、ほかほか亭の生姜焼き弁当の写真が貼られている。高校の頃、先生に黙って校内まで配達させていた思い出が綴られていた。三度目で見つかり、一丸も一緒に怒られた記憶が懐かしかった。
別の日のページには、美容師に流行りの髪型をお任せにしたら、ソフトモヒカンにされてしまったという嘆きがあり、彼女に大笑いされたと一行添えられていた。ベッカムヘアが街を賑わせた日韓ワールドカップから、すでに二年が経っている。
好きな車やバイク、よく聴いている洋楽の日記もある。マメに書き込まれた文章を読み進めるうちに、ソリーと今の彼女との関係は、案外うまくいくのではないかと思えてきた。昔から衝動的で手のかかる男ではあったけれど、猫のように甘えるあの癖を、笑って受け止めてくれる相手に巡り会えたのかもしれない。
結婚が決まったら紹介する。病院に来た際にソリーが口にしていたその言葉も、あながち遠い未来の話ではない気がした。
飲食店の看板やネオンが灯り始めた通りを歩きながら、誰かにこの思いを伝えたくてたまらなくなった。幼馴染が誇らしく夢に向かって歩んでいる。ただそれだけの出来事を、誰かに自慢したかった。
樹里に話せば、元嫁っすか、などと揶揄われるのが目に見えている。打ち明けるなら、やはり昔の時間を共有している人間がいい。
数日前にトン子からの着信があったものの、電話をかけ直す勇気は持てなかった。
携帯を開き、アドレス帳から『反園』の名前を呼び出す。気分がいい。酒でも飲みながら話したくなっていた。




