115話
仕事を終え、家で体を休めてから新宿へと向かった。気持ちが沈む前に、この用事だけは済ませておきたかった。
携帯に残された樹里からのメールを頼りに、歌舞伎町一番街のアーチを潜り抜ける。日の傾きかけた街は、徐々に夜の気配を帯び始めていた。
荷物を降ろす場所や、トラックを寄せる道幅、一方通行の向き。来週から回る店を一軒ずつ、確かめるように歩みを進める。
ここでも区役所通りの角に、制服を着た警察官が二人立っていた。
声をかけられた客引きの男が、不満そうな表情を浮かべて路地の奥へと消えていく。街を綺麗に整えるための取り締まりが厳しくなったと、最近のニュースでも目にするようになっていた。
病院を出たところで呼び止めてきた警察官は、私服だった。
橘と名乗る女の顔にはじめは覚えがなかったものの、『久しぶりね』と口元を和ませた瞬間に、昔一度だけ会ったことを思い出した。
あの日、橘がソリーのことを訊ねてきた理由は、時間が経過した今でも見当がつかないままでいた。『気をつけて、早く帰りなさい』八年前と同じその言葉が、どういう訳か今も耳に残っている。
ふと気づけば、角にいた警察官の姿は消えていた。
周囲の様子を一通り把握した一丸は、シネシティ広場へと抜けていく。正面に佇む新宿コマ劇場には、昔馴染みのあたたかな感覚があった。以前、何度か、仕事の手伝いで足を運んだ場所だった。
懐かしさに引かれるまま建物の入口へと近づくと、一人の男と視線が重なった。
「……あれ、株ちゃん?」
昼公演の舞台の幕が下りた後なのだろうか。落ち着いた秋の装いをしたその人物は、かつての同期、原田だった。
「久しぶりだなー。何してんのよ、こんなとこで」
人懐っこい笑みを浮かべた原田は、今はここに常駐しているのだと話してくれた。かつてのチーフの下で、今も毎日、ミュージカルの舞台に光を灯し続けていると聞いて、少し胸が熱くなった。
樹里のことや互いの近況を話し、そろそろ立ち去ろうと身体を向けかけたその時、女性が姿を現した。胸の前に、分厚い楽譜の束を大切そうに抱えている。
「あ、株ちゃんに紹介する。俺の彼女。今の公演でオケピ入ってんの」
彼女は、はじめまして、と柔らかく頭を下げた。音大の四年生で、公演のたびにオーケストラピットでピアノを受け持っているのだという。
一丸もかつて劇場に勤めていたことを原田が伝えると、昔を懐かしむ会話が自然と転がっていった。今日の公演で、客席の携帯が不意に鳴り出したとか、楽屋弁当が外れだったとか。舞台の裏側を知る者同士のよくある話だった。
会話の輪の中にいながら一丸の目は、楽譜を抱える彼女の指先を追っていた。
「ピアノ、興味あるんですか?」
視線に気づいたのか、彼女は楽譜を抱え直して笑った。
いや、と首を振りかけて、地元の知り合いに、音大でピアノを頑張っている奴がいるのだと、何故か正直に返していた。どちらの方ですかと訊かれて、千葉みなとだと答える。
すると同じ大学に思い当たる子が一人だけいると、彼女が目をぱっと輝かせた。




