113話
『もしもし、もしもしー?』
手にした携帯から声が流れ込んでくる。
『先輩、聞こえてますかー?』
いつ通話のボタンを押したのか記憶を手繰る。部屋は暗く、自分がどちらを向いて横たわっているのかさえ、すぐにはわからなかった。携帯を耳に押し当てる。
「……もしもし」
口の中が粘ついて、うまく言葉にならない。
『やっと出た! 何してるんすか、センター長、マジで心配してますよ』
センター長。樹里が口にしたその一言に、身体の芯を冷たい風が通り抜けた。耳から離した画面には、とうに日付が変わった時刻が表示されていて、すでに始業の時間を過ぎていることを知らせている。
『先輩? 聞いてます?』
「……ああ」
『何かあったんすか?』
「寝てた」
嘘ではない。それに、何の悪気もない。
『寝てたって……本当に大丈夫っすか?』
受話口の向こうで、言葉を探す小さな躊躇いが伝わってくる。どんな時も仕事を滞らせることのなかった姿を知っている樹里にとって、それは思いもよらない返答だったのだろう。背景には、トラックのエンジン音が混じる。
『うち、何回もかけたんすよ』
「悪い」
『ていうか先輩、声、変じゃないっすか。風邪?』
「寝起きだからだろ」
救急搬送されたことを言葉にするつもりはなかった。
『センター長、緊急連絡先に電話しようかって言ってたんすよ。先輩の家族に』
「やめてくれ」
言葉だけが先に走る。それだけは何としても避けたかった。
『止めておきましたよ。先輩、そういうの嫌がりそうだと思ったんで』
命拾いした気分だった。
『センター長には、うちの方からうまく言っときます。体調不良ってことで』
「……悪い。助かるわ」
『さっきから謝ってばっかっすよ、先輩。大丈夫です。またジュース奢ってください』
樹里の明るい声が届く。いつもの調子だった。
『ちゃんと、折り返してくださいよ』
通話は、そのまま切れた。
暗い部屋の中で、携帯の青白い光だけがぽつんと残り、やがて消えた。
着信履歴を開いて、『樹里』の名前が縦に並んでいるのを確認する。親指で画面を下に送っても、送っても、同じ名前が続いた。その下に一件だけあった『センター長』の文字には、少しほっとした。
これまで、アルバイトの時期も含めて、無断で仕事を休んだことなど一度もなかった。熱があっても意地でも職場に行くくらい体力には自信があった。三十九度を超えていた時には、さすがに劇場から追い返されたこともあったが。
--わざとじゃない。
自分にそう言い聞かせながら、体を起こそうと試みる。喉が渇いていた。折り返しの電話はそれからでもいい。
けれど、体はびくともしなかった。気持ちとは裏腹に、言うことを聞いてくれない。体が鉛のように重いとはよく言われるが、出来ることならば、こんな形で知りたくはなかった。
仕事をクビになる訳にはいかなかった。生きるためには、這ってでも仕事に行くしかない。なのに今は、かろうじて指を動かすことしかできない。
何か食べれば少しは動くかと思うが、腹も減らない。冷蔵庫には、母親のハンバーグが、手つかずのまま残っている。それに、着替えることも、風呂に入ることも、歯を磨くことすら叶わない。
まさに人間の屑だった。
明日こそは、と少しだけ期待して目を閉じる。けれど次の日も、何もできないまま過ぎた。今が朝なのか夜なのかすらわからない。ただただ、自分という存在が空っぽで、どうしようもなかった。
普通に働いて社会に貢献している人たちを思うと、惨めで死にたくなった。
今なら、神も、仏も、堕天使も、全部まとめて殺せそうな気分だ。
目の前にぼんやりと浮かび上がった、幼い頃の自分の幻に問う。
--おれは一体、何がしたいんだ?




