112話
「よお、兄弟」
開口一番そう言うと、ソリーは点滴の管を見つめ、ふっと息を漏らすように笑った。
「ひでぇ有り様」
お前もな。人のことは言えないはずだった。顔を見上げると、ソリーの方がよほどひどい。頬の肉は以前にも増して削ぎ落とされていて、骨張ったその姿は、死神が迎えに来たかのようにも思えた。
「丸ちゃん、金あるの?」
「あるわ」
母親から貰った金がな。
「お、さすがは丸ちゃん。悪いやつだな〜。一体どこからくすねてきたんだ?」
「抜かせ」
さっきまで医師が座っていた丸椅子へ、ソリーはどさりと力を抜いて腰を下ろした。シャツの袖から伸びる手首は、骨の輪郭がそのまま浮き出るほどに細かった。
「それで何でソリーがここにいるんだよ」
「何でって。電話したら、タクシーのおっさんが出てさ」
いつも通りの寝ぼけたような声で、ソリーはこれまでの経緯を話してきた。タクシーの運転手が、乗せた客が倒れて救急車を呼ぶと騒いでいたらしい。搬送先の病院は、救急隊員から聞き出したそうだ。
「……ってな訳で、来ちゃいました」
わざとらしく両手を広げてはっちゃける姿に、一丸は吐息を漏らす。
「頼んでないけどな」
「知ってる」
そう言って、眼鏡の縁を指で押し上げ「だよな」と大きく笑った。
その後は、何度も携帯を鳴らしてきた理由を問い詰める間もなく、ソリーは脈絡のない昔話を語り始めた。
話の多くは、高校時代のくだらない記憶だった。便所で煙草を吸っているのが見つかり、頬が腫れ上がるまで教員に殴られたこと。あの時の理不尽さを、ソリーは今でも本気で悔しがっている。そんな世の中への腹立ちを紛らわせるように、夜通し酒を飲んだ帰り道に、路上に転がっていたカラーコーンを線路へ放り投げたこともあった。
聞いていて、悪くはなかった。何の生産性もない話だけれど。
ふり返れば、大事な節目にはいつも側にいる気もする。詩亜と矢刃の間で一人途方に暮れていた時、隣のクラスで、まだ面識すらなかったにもかかわらず、ひょいと肩を組んで『よお、兄弟。どうした? しけたつらして』と声をかけてきたのもソリーだった。
二人で声を潜めて笑い合っていると、様子を見に来た看護師から、短く注意される。
互いに首をすくめて顔を見合わせる様子は、あの頃、学校で叱られていた時と何ら変わらない。
詩亜と別れて自暴自棄だった自分を、ソリーは突拍子もなく何度も連れ出しては、朝まで付き合ってくれた。今なら、それが救いの手だったとわかる。あれがなければもっと早く腐っていた可能性もある。たとえ皮肉にもそうやって引き延ばした二人の行き先が同じになってしまったのだとしても。
ソリーの自虐に紛れ込ませるように自身の病気のことを口にしてみたものの、「何だそれ、そんな病気あるのか? ただのヘタレだろ」とあっけなく笑い飛ばされ、一丸も「だよな」と相槌を打った。
ポケットの中で携帯が震え、ソリーはそれを取り出して開くと、一言謝ってからメールを打ち始める。
聞けば、どうやら自分は他人の彼女にも心配されているらしい。
「前に話した今の彼女。めっちゃ気が利いて優しいんだわ」
ソリーの表情が見る見るうちにだらしなく緩んでいく。
「結婚決まったら、丸ちゃんにも紹介すっから」
「いいって別に、おれは」
「何だよー、兄弟ー。そんな寂しいこと言うなよぉー」
ほとほと寂しそうにするソリーの様子を目にして、ああ、こいつは友達なのだ、と思った。そんな当たり前のことを、今さら確かめている。
「で、丸ちゃんの方はどうなんだよ?」
ソリーが少しだけ体を乗り出してくる。
「丸ちゃん、素っ気ないからなー。ちゃんと友達いんの? おれは心配だよ」
mixiの招待のメールも無視しやがってと、遠回しに突つかれているような心地がした。
「何だっけ、中学ん時の親友、三人いたじゃん。今は連絡取ってないの? 元カノは? 幼馴染なんでしょ? より戻せばいいじゃん」
毎度毎度、人の地雷を掘り返してくるノリはウザいことこの上ないが、あの頃の話を覚えていてくれる人間は、もうこいつしかいない。そう考えると、尊い。
もしかしたら、海賊王を目指して大航海へ出る理由など、一丸には最初からなかったのかもしれない。険しい道を肩を並べて歩いてくれる仲間が欲しかった。ただ、それだけだったのだ。船の行き先はたぶん、揃って地獄行きだけども。
「もう十二時か。そろそろ行くよ。明日もおれ、仕事だし。まだ大学行ってる奴がうらやましいぜ。まあ春にはどいつもこいつも地獄見てるだろうけどな」
一丸には、それを見届けられなくて寂しいと言っているように見えた。
「そいつらの顔、拝めるのが、楽しみだなぁ」
ソリーは自分の膝を叩いて立ち上がり、カーテンに手をかけたところで背中を向けたままこっちを見た。
「丸ちゃんの電話、嬉しかったよ」
言葉を返すより早く、布が一枚引かれた。足音が、廊下の奥の方へと遠ざかっていく。
また独りにされて、孤独という重みに押し潰されそうになる。独りで生きていくことのしんどさ。ソリーの痩せ細った背中にも、同じようなものを見た。
無駄なく整えられたベッドの上にいると、何だか神様の機嫌を損ねて、こんな途方もない部屋に放り投げられた気分だった。
これから支払うことになる処置代や、払いそびれたタクシーの運賃のことが、絶望感に拍車をかける。生きていくだけでも金がかかるというのに。
この先の不安から目を逸らすようにして、脇に置かれていた母親の紙袋を手元へ引き寄せた。
中には煎餅に、チョコレート。レンジで温めるだけのご飯のパックが、いくつも入っていた。蜜柑、箱のティッシュにトイレットペーパー。どれも、これでもかというほど詰め込まれている。
その底にあるのはタッパーだ。母親の顔が浮かぶ。幼い頃からの好物を持っていけと気前よく言っていた。久しぶりに息子が家に帰ってくると思って準備していたのだろうか。通夜の知らせを電話で寄越した時には、もう挽肉をこねていたのかもしれない。
蓋を開けると、ハンバーグが三個、隙間なく並んでいた。
一つでも持て余しそうな大きさだった。それは、部活から腹を空かせて帰っていた頃と、同じ大きさ。
「……こんなに食えねーよ」
声に出すと笑えてきた。
しょーもない。
こんなにも不甲斐ない息子のことを、あの人は、いつまで想い続けるつもりなのだろう。
そう思うと、涙が込み上げてきた。




