111話
「どこまで?」
「錦糸町」
カチカチと、ウインカーの刻む規則的な音と共に車が路肩に寄った。
「錦糸町?」
運転手はハンドルに片手を置いたまま、ミラー越しにこちらを見ている。
「ここからだと結構かかりますよ。お兄さん、お金あるの? 学生さん?」
人を見下すような物言いに、むしずが走る。
--こいつは何様のつもりだ? お前たちはそんなに偉いのか?
カチンと頭に血が上り、感情に任せて押し出した声は、自分でも驚くほど大きかった。
「いいから出せよ」
「いや、だからね--」
「出せって言ってんだろ」
ズボンのポケットへ手を突っ込み、母親に押しつけられたお金を掴み出して、運転席と助手席の間へ突き出した。
「おれは社会人だよ。早く出せよ」
運転手は紙幣の枚数を確認してから、もう一度ミラー越しに視線を向けた。
何も言わずにウインカーを戻すと、車は静かに走り出した。
シートの背もたれに身体を深く預けると、さっきまで全身を満たしていた激しい熱が、嘘のようにすうっと引いていった。
だけど入れ替わりにあれが戻ってくる。息が上まで吸えなくなってきた。窓の外を流れていく街の明かりがくしゃりと歪み、細く伸びた一本の線に繋がる。袋を抱えた腕から少しずつ力が抜けていく。
「お、お客さん!」
急ブレーキの衝撃に、身体が大きく前へ揺れる。クソみたいな大声が耳を刺した。
「どうしました? 大丈夫ですか? しっかりしてください、お客さん!」
振り向いた運転手の声があまりに汚いせいで鼓膜がイカれたのか、意識諸共、遠い場所へと引きずられていく。
膝の上から袋が滑り落ちる音を聞いたのを最後に、何も聞こえなくなった。
--ここは。
暗闇で、白い天井に蛍光灯があった。
カーテンで仕切られた狭いベッドに、寝かされていた。右腕には細い針が刺さっていて、そこから透明な管が伸びている。ここがどこなのかを、感覚が少しずつ理解していく。
様子を見に来た看護師が、何があったのかを手短に教えてくれた。タクシーの中で意識を失い、救急車で運ばれてきたこと。検査では体に大きな異常は見つからなかったが、脱水症状を起こしているため、こうして点滴をしていること。
「ご家族に連絡しましょうか」と尋ねられたが、小さく首を振ってそれを断った。
入れ替わりでやってきた精神科の医師だという男からは、もれなく病人宣告を受けた。まだ頭の中はぶつ切りで、うまく言葉が出てこなかったが、問われるままに答えた。
双極性のうつ病。それが、医師の下した診断だった。気分が大きく持ち上がる時期と、底まで沈み込む時期が、波のようにやってくる。そういう病気なのだと聞かされ、今日やたらと身体が軽かった理由に合点がいった。加えて、健診で指摘されていたパニック障害も併発しているのだと念を押される。
医師が出て行った。
静まり返る室内。
しばらくしてまたカーテンが開いた。




