110話
視線が気になって仕方がない。周りの誰もが自分を見ているような心地に囚われる。次はどこそこ、と告げる車掌の声も、ただの雑音のように素通りしていくだけで、駅名ひとつ耳に残らなかった。ホームへ滑り込んでいく列車が、いつまでも速さを落とさぬまま走っているようにさえ感じられる。
「大丈夫ですか。顔色、悪いですけど。席、座りますか?」
意識が朦朧とする中、目前に座っていた女性の声が届いた。
だが応える間もなく、音を立てて扉が開いた。一丸は人の肩をかき分けるようにして、なりふり構わずホームへと足を踏み出していた。
ここにも人が溢れている。荒くなっていく自分の吐息が、逃げ場のない焦りを煽り立てていた。
階段の脇にあったトイレの標識が視界に入り、逃げ込むように個室の鍵を閉める。
それでも、胸を突く激しい鼓動は収まらない。狭い空間と迫ってくるような白い壁に、訳のわからない恐怖が込み上げてくる。
居た堪れなくなり便器の横にしゃがみ込み、膝に額をぎゅっと押し当てた。細くすぼまった喉が塞がり、心臓の跳ねる音が四方の壁に反響して、耳を強く叩いてくる。
隣に誰かが入ってきた。やがて身震いするような他人の排泄音が響き、水が流れた。誰かの遠慮のない咳に、肩がびくりと震えた。
--だめだ、ここにいては。
息が止まりそうな苦しさに耐えかね、立ち上がって鍵を外す。母親から受け取った袋を抱えたまま、改札の向こうへ出た。外の空気を吸い込みたかった。
けど、夜の駅前もまた、眩しい光と人の群れで埋め尽くされていた。
客を待つ車の列に、信号を待つ人々。ロータリーを回るヘッドライトの光さえ、今は目を眩ませるだけだった。
点滅する信号を渡り切り、飲食店の明かりの下で弾ける笑い声を突き抜けて走った。
どこまで行っても、見渡す限り誰かの姿が残っていた。一人きりになれる場所など、この世界のどこにも残されていないかのように思えた。
縋るような思いで見上げた夜空でさえ、高くそびえるビルの隙間に、わずかに黒く切り取られているだけだった。
通りの先で、手を挙げたスーツ姿の男の前に、タクシーが停まる。開いた後部座席の扉へ乗り込もうと身をかがめた男の肩を、一丸は強く押しやり、抱えた袋ごと座席へと倒れ込んだ。背後で、短い苛立ちの声が上がった。
「ちょっと、お客さん、困りますよ」
振り向いた運転手と、ほんの一瞬だけ視線が交差する。
喪服姿の一丸の肩は激しく上下していた。血の気の失せた顔に、汗を吸った前髪がべたりと貼りついている。膝の上の袋を、中身が形を失ってしまいそうなほど強く抱きしめ、どこにも焦点の合わない目で前を見ていた。
そのただならぬ気配に触れて、運転手はそれ以上、何も言わなかった。窓の外で立ち尽くす男へ小さく頭を下げると、ゆっくりと車を走らせた。




