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110/127

110話

 視線が気になって仕方がない。周りの誰もが自分を見ているような心地に囚われる。次はどこそこ、と告げる車掌の声も、ただの雑音のように素通りしていくだけで、駅名ひとつ耳に残らなかった。ホームへ滑り込んでいく列車が、いつまでも速さを落とさぬまま走っているようにさえ感じられる。


「大丈夫ですか。顔色、悪いですけど。席、座りますか?」


 意識が朦朧(もうろう)とする中、目前に座っていた女性の声が届いた。

 だが応える間もなく、音を立てて扉が開いた。一丸は人の肩をかき分けるようにして、なりふり構わずホームへと足を踏み出していた。

 ここにも人が溢れている。荒くなっていく自分の吐息が、逃げ場のない焦りを煽(あお)り立てていた。

 階段の脇にあったトイレの標識が視界に入り、逃げ込むように個室の鍵を閉める。

 それでも、胸を突く激しい鼓動は収まらない。狭い空間と迫ってくるような白い壁に、訳のわからない恐怖が込み上げてくる。

 居た堪れなくなり便器の横にしゃがみ込み、膝に額をぎゅっと押し当てた。細くすぼまった喉が塞がり、心臓の跳ねる音が四方の壁に反響して、耳を強く叩いてくる。

 隣に誰かが入ってきた。やがて身震いするような他人の排泄音が響き、水が流れた。誰かの遠慮のない咳に、肩がびくりと震えた。


 --だめだ、ここにいては。


 息が止まりそうな苦しさに耐えかね、立ち上がって鍵を外す。母親から受け取った袋を抱えたまま、改札の向こうへ出た。外の空気を吸い込みたかった。

 けど、夜の駅前もまた、眩しい光と人の群れで埋め尽くされていた。

 客を待つ車の列に、信号を待つ人々。ロータリーを回るヘッドライトの光さえ、今は目を眩ませるだけだった。

 点滅する信号を渡り切り、飲食店の明かりの下で弾ける笑い声を突き抜けて走った。

 どこまで行っても、見渡す限り誰かの姿が残っていた。一人きりになれる場所など、この世界のどこにも残されていないかのように思えた。

 縋(すが)るような思いで見上げた夜空でさえ、高くそびえるビルの隙間に、わずかに黒く切り取られているだけだった。

 通りの先で、手を挙げたスーツ姿の男の前に、タクシーが停まる。開いた後部座席の扉へ乗り込もうと身をかがめた男の肩を、一丸は強く押しやり、抱えた袋ごと座席へと倒れ込んだ。背後で、短い苛立ちの声が上がった。


「ちょっと、お客さん、困りますよ」


 振り向いた運転手と、ほんの一瞬だけ視線が交差する。

 喪服姿の一丸の肩は激しく上下していた。血の気の失せた顔に、汗を吸った前髪がべたりと貼りついている。膝の上の袋を、中身が形を失ってしまいそうなほど強く抱きしめ、どこにも焦点の合わない目で前を見ていた。

 そのただならぬ気配に触れて、運転手はそれ以上、何も言わなかった。窓の外で立ち尽くす男へ小さく頭を下げると、ゆっくりと車を走らせた。

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