108話
「起きれてたわよ。まあ私の場合はパートだったけど」
向けられた視線には、何かを見透かすような鋭さが宿っている。
「何、あんた、もしかして」
少しだけ口元を緩めた母親は、何かを確かめるような声音で言葉を継ぐ。
「あんたは高校卒業してから、夜のバイトしすぎておかしくなったんじゃないの?」
違うとも、そうかもしれないとも言えず、一丸は言葉を喉の奥へ押し込めた。
聞けば、父親もすでに夜勤を辞め、明るい時間帯の仕事に戻ったという。陽の当たる場所に二人の生活があり、日が暮れれば一つの屋根の下で温かな夕食を囲む。自分の知らない間に、あの家には穏やかな日常が戻っていたのだった。
「今日くらいは泊まってくんでしょうね?」
「いや、帰る」
短く断ると、母親は少し困ったように眉を下げた。
「ならハンバーグ作ってあるから、持って帰りなさい」
それが幼い頃からの好物であったことさえ、遠い思い出の底へ置き忘れていた。急に喉の奥がキュッと詰まるような感覚がして、慌てて息を吸い込む。
「どうせ、ろくなもん食べてないんでしょ。それとも、誰か作ってくれる人でもいるの?」
言うだけ言って、母親は家の中へ消えていった。
親というやつは、どこまで図々しいのだろう。全てお見通しなのか。
門の前で待つ間、何気なく見上げた二階のベランダからは、以前立てかけられていた梯子の影が消えていた。一年半ほど前に立ち寄った時には、そこにあったはずなのに。この家もまた、少しずつ時間を重ねて変わっている。
やがて戻ってきた母親から、ずっしりと膨らんだ袋を手渡された。
「重っ」
「何、大袈裟なこと言ってんの。これくらい、大丈夫でしょう」
その重みと温かさに、間違っても親より先に死ぬなよ、と言われているような気がしたのは、気のせいだったろうか。
袋を手にしたまま背を向けようとすると、母親が財布を確かめるように開いた。
「ほら、これ持っていきなさい」
「いらないって」
固辞したのに母親は引かなかった。何度か押し問答をして、折れたのは結局、自分の方だった。
少し歩いて一度だけ振り返ると、橙色の明かりの下で、母親はまだ門の前に立っていた。
駅へ続く夜道を歩きながら、一丸は己の歩んできた道を思っていた。
自分の夢は、何だったのだろうか。
幼稚園で画用紙に何かを描き、皆の前で発表した記憶だけがぼんやりと残っている。小さな手で何かを描いたはずなのに、それが何だったのかは、どうしても思い出せない。母親なら覚えているのかもしれないが、今の自分にはそれを口にする強さがなかった。
いつまでも宙ぶらりんのままで、自分がどこへ向かいたいのかさえ掴めずにいる。それはまるで、いつまでも値札の貼られない売れ残りのようでもある。
それでも、いつの日か両親に見せたい光景があった。テレビの向こうで目にしたような一軒家を建て、愛する家族を築いて、立派な大人になった姿を見せたい。
もしそれが叶わなかったとしても、せめて、通わせてもらった専門学校の学費くらいは、自分の手で返そうと思う。




