102話
「さすが、元暴走族の総長。耳が早いようね」
橘さんの口元には、笑みの気配すらなかった。
「地元のツレが言うには、うちの店にもスターダストの奴が出入りしてる注意しろって」
二人へ視線を向けた後、しばらく口を閉ざしたまま橘さんは手帳を閉じる。
「……これ以上は、捜査中の内容なので」
きっぱりと言葉が途切れると、キッチンの奥で鍋が噴きこぼれた。いつの間にか店内には、牛肉を煮込んだまろやかな匂いが、あたたかな湯気と一緒に充満していた。
「うわ、やべ」
慌てて奥へ引っ込んでいく夫の背中を見送ってからこちらを向き直り、橘さんは顔をじっと見てきた。
「歌舞伎町には、しばらく近づかない方が身のためよ」
言葉以上の重たい視線に、仁子は押し黙る。
「橘さん、詩亜には?」
身の危険を感じて真っ先に思い浮かんだ名前だった。ピアノのコンクールはもうすぐ目の前に迫っている。
「詩亜には触れないで。今、すごい大事な時期なの。お願い、橘さん」
詩亜の真っ直ぐな性格を思えば、警察から直に丸ちゃんの名前が出ただけで、とてもピアノどころではなくなってしまう。
橘さんは詩亜と丸ちゃんの関わりを聞いて納得をしてから「わかりました」と受け入れてくれた。
捜査についてもっと踏み込んだ情報がほしい、そう思ったその時。開けっ放しだった扉が二回ノックされた。
「失礼します」
扉すれすれの長身男の声は、ノックの音と同じで控えめに店内の床に落ちる。
「――誰?」
昨日、夫が言っていたホストだろうか。
出で立ちは、ロン毛を後ろでひとつに束ね、黒いジャケットをクールに羽織り、いかにも夜の街に馴染みそうなそれ相応の格好をしていた。男が近づくたびに、ブーツの色気のある音が店内に響く。
「橘さん、遅れてすみません」
その口ぶりに、何かが引っかかる。
「ちょっと店先でいざこざがありまして」
「警察は?」
「大丈夫です。すぐに収まったんで」
男はホスト風情のくせに、柔らかく親しみ深く表情を崩す。
「橘さん、いつもすみません。うちの連中は血気盛んな輩ばかりで」
--ちょっと待て。この声。
言葉にする前に、男がこちらを向いた。目が合う。
「久しぶりだね。トン子」
「はい?」
雷に打たれたような衝撃に、思わず声が裏返った。
「……駿⁈」
「あれから二年ぶりくらい? 会うのは」
あまりにもいつも通りの口調で話すものだから、仁子は返事も忘れたまま、時間が止まってしまったかのような感覚に囚われていた。
「いやいや、そんなことよりも何⁈ その格好は? どうした? いきなり何があった?」
訊きたいことがありすぎて頭の中が上手くまとまらない。最後に顔を合わせた日は進学校に通うごく普通の大学生だった。髪型も服装も、どこにでもいる学生と変わらなかったはずだ。
駿は昔懐かしく照れくさそうに目を細めて、えへへと笑う。「よかった。トン子、元気そうだね」




