101話
橘さんが訪ねてきた理由を訊こうとしたところで、携帯の呼び出し音が鳴った。夫はそれを受け取ると、ベランダへ出て行ってしまう。聞こえてくる声の調子からして、地元の古い友人だろう。
一人残され、携帯をいじっていると、mixiにマイミク申請が届いていた。ベランダから戻ってきた夫に問いかけてみる。
「健ちゃんって、中学の頃からの仲だっけ?」
それは夫が最も親しくしている友人の名前。
「そうだけど。何で?」
それとなく訊き返してきた夫は、大きな体を椅子に沈める。
「陽葵が今日、仲のいいお友達と喧嘩したんだって」
「へえ」
相変わらず興味なさげな声だ。
「で、それで?」
男は結論を急ぐ。
「やっぱり、幼い頃からの友達って特別なのかなって」
仁子は幼稚園から泣いて帰ってきた娘を抱きしめながら、友達は大切にするんだよとなだめていた。
「俺にはよくわかんねえけど。ずっと続くんなら、それはそれですごいことなんじゃね?」
ここで夫は「ああ」と声を漏らし、思いの行く先を汲み取ってくれたようだった。
「仁子の地元のツレのことか。詩亜ちゃんたちの」
「まあ、そうだね。あたし、三人とは中学からの仲だからさ」
だから、あの三人の中で、自分だけが劣等感を抱いていた。どこかで拭いきれない距離感をずっと感じてしまっていた。駿が他の二人と仲良くなったのは小学生の頃だけど。
「幼稚園からの幼馴染ってどんな感じなんだろうね」
ビールを持つ夫の手が止まる。
「そうだなー。物心ついた時から一緒なんだろ? そこまでいくと、もう家族みたいなもんじゃねえの。多分、知らないことなんてないだろうし」
「そんなもんかねえ」
しみじみと仁子は言って、言葉を深く噛み締めた。
翌日、まるで約束していたかのように、橘さんは姿を現した。
それは開店の支度を手伝っていた頃だった。店の奥から夫ののどかな声が聞こえてきた。
「そろそろ陽葵のお迎えじゃない?」
壁に掛けられた時計の針は、まだ少しだけ時間にゆとりがあった。
「まだ平気ー」
そう答えた直後に店の扉が開いた。
橘さんだ。普段と変わらない装いのまま、店内へと足を踏み入れてくる。
「少しだけ、お時間いただけますか」
今日の声は、いつも以上に抑揚がなかった。不自然な敬語も、少し耳に障る。それと焦りだろうか。普段とは違う、何か張り詰めた気配を背負っていた。
「いいけど、あんまり時間ないよ。幼稚園のお迎えがあるから」
「承知しています」
カウンター席を勧めたが、橘さんは「時間は取らせません」と首を横に振って立ち話を希望した。
「こちらも差し迫った事情があるので、単刀直入に伺います」
そう言って開かれた小さな手帳から、丸ちゃんにまつわる問いが次々と出されていく。どこで知り合ったのか。どれほどの頻度で顔を合わせていたのか。最後に言葉を交わしたのは、いつのことだったか。
答えるたびにペンを走らせてゆく。それはまるで、忘れかけていた出来事の欠片を拾い集め、空白を一つずつ優しく埋めていくかのようだった。
「株田さんとは、二年前に会ったきりということで間違いない?」
念を押すような確かめに、仁子は気圧されながら「はい」と頷いた。
「あの……丸ちゃん何かしたの?」
あるいは何かに巻き込まれているか。もしくはその恐れがあるか。
でも、答えは返ってこない。手帳に視線を落としたまま、さらさらと文字を書き連ねている。何を問われているのかは理解できても、その指先が探そうとしている輪郭までは掴めない。
そこへ奥から戻ってきた夫がカウンター越しに言葉を挟んだ。
「スターダストですよね?」
橘さんのペン先が、ぴたりと止まる。
その名は裏社会では名の知れた組織の名前。それと同時に仁子の頭には、株田一丸と結びつく、もう一つの名が浮かび上がっていた。
「壊滅した組織の残党が、千葉から歌舞伎町へと流れてきているんですよね。昨日、地元の知り合いから聞きました」
記憶の糸がゆっくりと手繰り寄せられていく。
そう。かつてその名を轟かせていたスターダスト。その幹部を務めていた男たちの中には、矢刃という男がいた。




