表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/4

少しずつ、境界線の内側へ

澪が少しずつ変わり始めたのは、付き合ってから一ヶ月が経った頃だったと思う。


最初の頃は、付き合う前よりもむしろ距離が遠くなったみたいに、二人ともぎこちなかった。

敬語も、態度も、ほとんど「先輩と後輩」のまま。


それが、ある日を境に、少しずつ、ほんの少しずつ、変わっていった。


その日も、放課後に図書室で待ち合わせをしていた。


私は窓際の席でレポートを読みながら待っていると、澪が小さく会釈をして近づいてくる。


「こんにちは、白石先輩」


外では、いつも通り。


「こんにちは」


席に座って、勉強を始める。

問題集を開いて、ノートを広げて、分からないところを一つずつ確認する。


しばらくして、澪が小さくため息をついた。


「……ここ、また間違えました」


「どれ?」


覗き込むと、同じところで引っかかっている。


「ここはね……」


説明していると、澪はじっとノートを見つめながら、ぽつりと言った。


「……何回も聞いて、すみません」


「いいよ。そういうの、気にしなくて」


「……でも」


言いかけて、少しだけ迷った顔をしてから、澪は小さな声で続けた。


「……紬さんなら、もう少し優しく教えてくれるかなって、思ってました」


一瞬、何を言われたのか分からなくて、私は瞬きをした。


「……今も、優しくしてるつもりだけど」


「そうじゃなくて……」


澪は、少しだけ視線を逸らして、頬をかいた。


「……恋人、なんですよね。私たち」


「……そうだけど」


「……じゃあ、もうちょっと……甘えても、いいのかなって」


その言葉に、胸の奥が少しだけ、静かに鳴った。


「……いいんじゃない」


そう答えると、澪は少しだけ安心したように笑った。


「……じゃあ」


一拍置いてから、少しだけ声の調子が変わる。


「……ねえ、紬」


呼び方が変わる。


それだけで、空気が少し変わった気がした。


「……この問題、ほんとに分かんない」


さっきより、少しだけ近い声。


私は、内心ちょっとだけ緊張しながら、問題集を指で示す。


「ここから考えればいい」


「……うん。でもさ」


澪は、少しだけ身を乗り出してくる。


「……もう一回、最初から教えて」


その「もう一回」が、さっきまでよりずっと素直だった。


それから、その日を境に、澪は少しずつ変わっていった。


「ねえ、今日ちょっと疲れた」

「少し休憩しよ」

「……紬、こっち見て」


言い方はまだ控えめだけど、確実に「頼る」言葉が増えていく。


外では相変わらず、きちんとした後輩の顔。


「白石先輩、こちらのプリントはもう終わりました」


でも、家に来ると、少しだけ違う。


「……つかれた」


そう言って、ソファに座るまでの動きが、前より迷わなくなった。


ある日、紅茶を淹れて戻ってくると、澪はソファの端にちょこんと座っていた。


「どうしたの?」


「……別に」


そう言いながら、少しだけ私のほうに寄る。


肩が、触れそうで、触れない距離。


「……ちょっとだけ、近くにいたかった」


それを、まるで大したことじゃないみたいに言う。


私は、何も言えなくなって、ただ「そっか」とだけ答えた。


心臓の音が、少しうるさい。


帰り際、玄関で靴を履きながら、澪は小さく言った。


「……ねえ、紬」


「なに?」


「……ちゃんと、恋人になれてる?」


その質問に、少しだけ考えてから、私は答えた。


「……なろうとしてる途中、かな」


澪は、少しだけ笑った。


「……じゃあ、私も、もう少しだけ……頑張って甘える」


その言葉が、なんだか可笑しくて、少しだけ愛おしかった。


境界線は、まだちゃんとある。


でも、澪は少しずつ、その内側に入ってくる。


恐る恐る、確かめるみたいに。


私は、その一歩一歩を、ちゃんと受け止めたいと思っていた。


急がなくていい。

この子のペースでいい。


そう思えるようになったのは、たぶん、私のほうも少しだけ、余裕が出てきたからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ