『蹴上――名を穿つ足音』
京都・東山の麓、緩やかな坂を下った先に、ひっそりと佇む地下鉄東西線「蹴上駅」。周囲には南禅寺や琵琶湖疏水、インクライン跡があり、四季を問わず観光客で賑わう――はずだった。
だが、ある季節、ある時間を境に、この地の空気は変わる。
“蹴上”という地名には、古くからいくつかの言い伝えがある。ひとつは、戦乱の世に罪人を“蹴り上げて”処刑場へ送ったという説。もうひとつは、かつてこの土地を流れていた急流が、命ある者を“蹴るように”押し流し、死の淵へと叩きつけたというもの。
その血の記憶を、今もこの地は忘れていない――。
昭和の終わり。紅葉も終わりかけた十二月の早朝。
写真家の男は、旅館での撮影仕事の合間に、趣味のスナップを撮るべく、インクライン跡を訪れていた。
辺りはまだ夜の名残を湛え、空は鈍く白んでいる。琵琶湖疏水の水音が静かに響く中、霧が立ち上る石畳を一歩一歩、男は進んでいった。
冷たい空気がレンズを曇らせる。シャッター音だけが、静寂を引き裂く。
そのときだった。
「……あれは……?」
インクラインのレール上に、黒く細長い影が立っているのが見えた。
まっすぐに立つ姿。そのはずなのに、首だけが奇妙に折れている。
男は息を呑んだ。
カメラを下ろし、肉眼で見たが、影は消えていた。
気のせいか――そう思って再びカメラを構える。
……いた。ファインダーの向こうに、確かに人影。
今度はうつむき、まるで何かに縋るような姿勢。
「どういうことだ……?」
疑問と不安が混じる中、
“パチンッ”
耳元で何かが弾けた。
「うっ……!」
驚き、身をすくめる男。
振り返っても誰もいない。
だが空気が変わっていた。
焦げた金属、濡れた血の匂い、そしてぬるりとした生温かい風が、頬を撫でていく。
そのときだった。
ドンッ……ドンッ……ドンッ……
斜面の上から何かが駆け下りてくる音。
足音にしては重すぎる。まるで、鉄球が跳ねるような不自然なリズム。
「来る……っ!」
男は条件反射でシャッターを切った。
フラッシュが辺りを照らし、暗闇が一瞬破られる。
その瞬間、レンズのど真ん中に、真っ黒な足が浮かんでいた。
人の足――だが、どこか異様に歪んでいる。
そしてその足の甲に、赤く滲む一文字が刻まれていた。
“蹴”――。
目が合った。
いや、“合った”としか言えないほど、何かが確かにこちらを見ていた。
男は叫び声を上げ、レンズごとカメラを落とし、その場を逃げ出した。
震える足、転びかけながらも、全力で走った。
背後で、足音は止まなかった。
それから三日後。
彼は自宅の風呂場で転倒し、頭部を強打して亡くなった。
現場には争った形跡はない。
ただ、浴室の床に残された靴跡が一つ。
それは、つま先が彼の頭に向かっていた。
誰かに、蹴られたように。
蹴上。
それは風景の名ではない。
過去から今へ、静かに響く“名を穿つ足音”。
その名に触れた者は、決してただでは済まないのだ。




