『芹沢鴨の影――報いを拒んだ男の最期』
壬生寺の裏手。観光客の足取りが絶えるころ、あたりには湿った土と古木の匂いがただよう。石畳の先、ひっそりと続く苔むした細道の終わりに、名もなき石碑がひとつ佇んでいる。
照明の届かぬ闇に沈み、草の影に埋もれるその石は、まるで周囲の空気ごと時間を閉じ込めているようだった。
近づけば、表面にわずかに刻まれた一文字――「誠」。
だが、線香も花もなく、誰からも顧みられないその石には、ある噂がついてまわる。
それは新選組・芹沢鴨の“魂鎮め”であるという話だった。
酒と女に溺れ、粗暴を極めた男。
新選組創設時の局長でありながら、粛清された。
壬生屯所の一室で、酔い潰れている隙に襲撃され、刀で何度も斬られた挙句――動けなくなったところを、誰かが酒瓶で顔を潰した。
その無惨な死に様に、誰ひとりとして声をかける者はなかった。
語られることもなく、ただ歴史の底へ沈められた。
ある夏の深夜。
地元の若者たちが、肝試しを口実にその石碑を訪れた。
空には雲ひとつなく、月明かりが鈍く照らす中、男たちは嘲笑まじりにスマホのライトを翳し、石碑を囲んだ。
「これがあの芹沢鴨の墓ってやつか?なんだ、しょぼいな」
「こっちの方がよっぽど怖えよ、マジで」
その中の一人が、突然笑いながらズボンの前を下ろし、石に向かって小便をかけた。
生温かい尿が苔を濡らし、石の下に広がった。
仲間たちは爆笑し、その様子を動画に収めてSNSに投稿した。
だが、その笑い声が、ふいに風に消されるように静まった。
境内の奥から、低く湿った風が吹いたのだ。
風に混ざって、かすかに酒の匂いがした。
翌朝。
小便をかけた男は、自室で遺体となって発見された。
母親の悲鳴で駆けつけた救急隊員が告げた死因は「急性心不全」――だが。
検死に立ち会った父親が、警察にぽつりと漏らした言葉だけが、今も語り継がれている。
「顔が……潰れてたんや。誰にも殴られてへんのに。まるで……まるで、酒瓶でやられたみたいやった」
それ以来、その石碑に近づく者はいない。
日が落ちると、そこに濡れた足跡が現れることがあるという。
片足を引きずるような、歪んだ歩幅の足跡。
乾いた石畳に、なぜか黒く滲むように現れるその痕跡は、朝になると消えている。
ときに、風もないのに、どこからか酒の匂いが漂う夜がある。
その夜の風は、皮膚の表面を撫でるのではない。
背骨の奥に、じわじわと冷たさを染みこませる。
耳を澄ませば、どこからか声が聞こえる。
――「俺は……まだ終わっていない」
それは呪いでも祟りでもない。
自らの死を“報い”と認めず、納得せぬまま現世に留まり続ける、哀れで、恐ろしい叫びなのだ。
かつて“誠”を掲げた者。
だがその誠を裏切り、仲間の手によって断罪された者の末路。
石の下に眠るのは、赦されぬ魂。
彼の声は、いまだ夜の壬生を彷徨っている――。




