『女坂の悲劇――かえらずの坂』
その坂は、選んではいけない。
理由もなく、気まぐれで足を踏み入れてはいけない道というものが、この世には確かに存在する。
京都・東山、清水寺へと向かう道のひとつ、女坂。
男は、その道を選んだ。
観光地図を片手に、ただ静かな道を歩きたいというだけの理由で。
午後五時を過ぎたばかりだった。
夕陽が山の端に傾きはじめ、辺りに赤黒い陰影が広がっていた。
石畳には、木々の影が細かく網のように落ちていた。
肌に感じる空気は、なぜかひどく湿っていた。
「……こっち、通る人が少なくて正解だったな」
男は独り言を呟いた。
仕事での疲れと、人混みによる苛立ちが薄れていくのを感じていた。
細い路地を抜けて女坂に入ったとき、確かに風景は変わった。
人の声が、途端に聞こえなくなったのだ。
坂の入口には、石に刻まれた立て札があった。
「女坂 足元注意」
注意書きはそれだけ。だが、その石には何か妙な――祈りのような気配があった。
そのときは気にも留めなかった。
坂を下るにつれて、周囲の空気がどこか淀みはじめた。
石垣が古く崩れかけ、左右の塀の隙間からは、苔むした祠や石仏が覗いていた。
その石仏が、ひとつ、またひとつ、どこか不自然な数で並んでいる。
「……こんなに、あったか?」
不安が喉に詰まり、男は無意識に早足になった。
すると、背後から。
コ、コ、コ……と草履の音。
振り返った。誰もいない。
風の音もない。
ただ、どこかで女の声のようなものが、微かに響いた気がした。
――返して。
空耳だと笑おうとしたが、唇が動かない。
喉が乾ききって、息を呑む音すら出なかった。
額に冷や汗が滲む。
再び歩き出そうとしたとき、左手の石仏の顔が、ふと目に入った。
その顔は……見覚えがあった。
自分だ。
自分と、そっくりの顔が、無数の石仏に刻まれている。
「……な、んで……?」
ざあっ、と風が吹いた。
紙垂のように白い何かが、目の前を横切った。
視界の先に、女が立っていた。
白い着物に乱れた黒髪。顔は見えない。
ただ、目だけが異様に赤く光っていた。
まるで深い井戸の底から、覗き返すような眼差しだった。
男は声にならない悲鳴をあげ、逃げようと坂を駆け下りた。
だが、道はどこまでも続き、出口が見えない。
同じ祠、同じ石仏が何度も視界に現れ、世界がぐるぐると回っていた。
やがて、足が止まった。
心臓がばくばくと鼓動し、視界の端が滲んでいた。
立ち尽くす男の背後で、再び草履の音が鳴った。
コ、コ、コ……
ふと振り返る。
そこには、何もない。
いや、何もないのに、風だけがそこを通っていた。
――女坂には、帰らぬ男の霊が彷徨うという。
その者たちは皆、自分が消えたことにも気づかぬまま、毎夕、観光客のあとを静かについてくるのだ。
だから、あなたがもし、背後に草履の音を聞いたなら。
決して、振り返ってはならない。
そこには、あなたの“顔”をした何かが、もうひとり、立っているかもしれないのだから。




