『清水の舞台から飛び降りた者』
夕暮れ時、清水寺は観光客の波がようやく途絶え、山の斜面に蝉の声がやや寂しげに響いていた。赤く染まった舞台からの眺めは相変わらず絶景で、京都の街並みが霞むように広がっていた。
そのとき、ふと視界の端で“誰かが立っている”のを感じた。舞台の欄干のすぐ外側。明らかに、立ち入ってはならない位置だ。
「おい、危ないですよ!」
僕はとっさに声をかけた。だが、そこにいたはずの人影は、まるで霧が溶けるように消えていた。
「あれ……?」
誰もいない。確かに見たはずなのに。
翌日、地元の知人である僧侶にその話をしたところ、彼は静かに言った。
「それは、“願かけ落ち”の影やろな」
「……願かけ落ち?」
「昔な、清水の舞台から飛び降りたら願いが叶う言うて、命を賭けて跳んだ者がおった。今でこそ立ち入り禁止になっとるけど、江戸の頃は百人以上が跳んで、半分以上が命を落としたって記録がある」
「じゃあ、昨日見たのは……?」
「未練の影やろ。願いが叶わんまま、落ちて死んだ者の念が残ってるんや。ようあるんや、あの時間帯になると欄干の向こうに人が立っとるの見た、いう話」
その夜、僕はもう一度、清水寺を訪れた。
夕焼けの時間を狙って、カメラを手に舞台に立つ。
そのとき、耳元で囁くような声が聞こえた。
「……かなえて……くれ……」
心臓が跳ねた。振り返ると、すぐ背後に、白い着物の袖が見えた。
誰かが立っている。だが、顔は見えない。
僕は恐怖で身体がすくみ、後ずさった。
舞台の床板が軋み、足元が崩れそうになる。
その瞬間、ふいに腕をつかまれた。
冷たい。骨ばった、力のない手だった。
「お前、なら……代わってくれるか……?」
次の瞬間、誰もいない舞台の上で、僕はひとり膝をついていた。
シャッター音だけが、虚しく響いていた。
カメラには何も写っていなかった。ただ一枚、空を背に、空中に浮かぶ白い足だけが、ぼんやりと――。




