第9話 篠宮彗、トラブルに見舞われる
スタンピードから、一ヶ月が経った。
街の復旧はだいぶ進んでいた。
崩れた建物は解体され、瓦礫は片付き、仮設の店舗や住居が並び始めている。
表面上は、ずいぶん元通りに見える。
ただ、完全ではない。
街へ溢れ出た魔物のうち、ダンジョンへ戻らなかった個体が、今も廃屋や森の外れ、人気のない路地に潜んでいる。
追えば隠れ、隠れた先で繁殖する。
いまだ完全な掃討には至っていなかった。
そのせいで、冒険者ギルドには今日も討伐依頼が山のように貼り出されている。
残党狩り、周辺調査、護衛、復旧支援。
スタンピード後の依頼票は、目まぐるしく入れ替わっていた。
篠宮彗は、その掲示板の前に立っていた。
その中の一枚に目が止まる。
――黒松ダンジョン異常調査依頼
・中級以上/複数名募集。
・スタンピードの影響により、内部の魔物密度が上昇傾向にある。
異常変動によるダンジョン内部の構造変化、通常出現しない魔物、異常増殖の有無を調査。
増殖が確認された場合は、可能な範囲で駆除を行うこと。
放置すれば第二のスタンピードの火種になりかねないため早急な対応を求む。
スタンピードがなぜ別のダンジョンに影響するのかは、まだ解明されていない。
有力なのは、ダンジョン同士が地下の魔力網でつながっており、一ヶ所での大規模な魔力放出が周辺に連鎖する、という説だ。
実際のところは不明だが、過去にも同様の異常は確認されている。
現場では、半ば「そういうもの」と受け止められていた。
その依頼票を眺めていると、背後から気配が近づいてきた。
「あの、篠宮さんですよね」
振り返ると、窓口担当の職員が小走りで寄ってくるところだった。
「実は、お声がけしようかずっと迷っていて……」
「どうしました?」
「その黒松ダンジョンの緊急依頼なのですが……」
職員が声を落とし、内容を伝えてきた。
どうやらスタンピード後はダンジョン内が荒れやすい時期で、普段と違う魔物が出たり、地形が変わったりすることが多々あるらしい。
現状、対応できる者は他の依頼に出ているか、今回のスタンピードで負傷しているようで、募集をかけても誰も応じくれないとのこと。
「お忙しいところ恐縮なんですが、篠宮さんなら単独でも対応できるとギルドは判断しています。報酬は通常の二倍にするので、どうかお願いできないでしょうか?」
篠宮は少し考えた。
信頼できる仲間は残念ながらスタンピードで軒並み離脱している。
つい先日まで入院していた笹川――同業で信頼できる友人を病み上がりで誘うなんてできない。
とはいえ、それなり急ぎの案件なので他を今から探すのは都合が悪い。
過去の傾向から可能性こそ低いが、その間に本当に第二のスタンピードが起きれば、洒落にならない。
それなりにリスクは高いが報酬も悪くないし、万が一を考えれば着手するべきだろう。
まず偵察だけでもして、手に負えないと判断したら、ギルドに上位の冒険者を呼んでもらう。
それがベストだと判断した。
「分かりました。受けます」
「助かります。本当に」
深く頭を下げた職員が、小さな金属筒を差し出した。
手のひらに収まるサイズで、表面に魔術文字が刻まれている。
「これは緊急救援用のアイテムです。重要度の高い依頼に限って、ギルドが貸与しているものです。発動させると、緊急事態の知らせがギルドに届きます。黒松の異常はまだ小さい段階だと見ていますが、スタンピードが起きたダンジョンにも近い場所です。念のためお持ちください」
なるほど。
自分に何かあれば、ギルドが把握して応援を寄こすということか。
篠宮はそれを受け取り、ポケットに収めた。
その時、依頼票の「異常変動」という文字に、ふと頭の片隅に引っかかった知識が浮かんだ。
――浸食現象
師匠に以前教わったことがある。
ダンジョンの内部変動が制御不能なまでに拡大した時、ダンジョンが外側へ染み出すように地上を侵食し、建物や道路を丸ごとダンジョンの構造に置き換えていく現象。
人の生活圏が、そのまま飲み込まれる。
考えるだけで恐ろしい。
過去の確認例は数えるほどしかなく、記録もほとんど残っていない。
今回の異常はまだ小さな段階だと聞いている。
心配するような話ではない、はず。
ただ、その言葉だけが、妙に頭の隅に残った。
ただ何となく、脳の隅から消えなかった。
♢
篠宮が冒険者になった理由は、金だった。
母子家庭で育った篠宮には、働きづめの母と、可愛い妹がいた。
十九歳だった当時、家計を助けたかった。
妹に普通の高校生活を送らせたかった。
母に無理をさせたくなかった。
もっとも、冒険者になる動機なんて大抵そんなものだ。
金、名誉、魔物への復讐。
篠宮だけが特別俗っぽいわけではない。
登録から二年後、二十一歳で中級冒険者になった。
一般的には早くても五年かかると言われている。
それをわずか二年でやってのけたのだから、当時のギルドではそれなりに騒がれた。
自分でも才能はあったのだと思う。
おかげで、今では母と妹に不自由のない生活をさせられている。
その翌年、ある冒険者に声をかけられた。
「才能はある。でも基礎が雑すぎる。私のところに来なさい」
当時すでに世界百強だった、のちの師匠だ。
その名前を聞いた瞬間、篠宮は思わず「なんで私が」と聞き返した。
師匠は一言「才能を見込んだから」と笑い、懇切丁寧にお断りする篠宮を強引に弟子にした。
それからの数年間が、篠宮の冒険者人生を根本から変えた。
技術、判断力、立ち回り。
徹底的に叩き込まれた。
少し強くなるたびに「もっとやれる」と思い、その慢心が出るたびに師匠にボコボコにされた。
心を折られた回数は、数えたくもない。
悔しくて仕方がなかった。
いつか必ず、あっと言わせてみせる、と密かに心に決めている。
そんなことを決意している間に、二十五歳で上級冒険者になった。
その後も順調に実力を伸ばしていき、今では同業の知人から「特級に足を踏み入れつつある」と言われることもあるが、師匠にはまだまだと言われているし、自分でも実感がないの等級を上げる気もない。
修行と仕事の合間は、家族との時間に使い、それから趣味の食べ歩きに使った。
食べ歩きが好きになったのは、師匠の影響だ。
師匠は強いだけの人間ではなかった。
食に本気でこだわりがあり、評判の店だけでなく食材の産地、調理法、素材の組み合わせ、季節による味の変化まで淀みなく語れる人間だった。
修行の合間に連れて行ってもらった店で、ごはんってこんなに美味しいのかと初めて思った。
それ以来、依頼先では必ず評判の店へ足を運ぶ習慣ができていた。
その辺のグルメインフルエンサーとは、積み上げてきた年季が違う。
篠宮は密かにそう思っている。
そんな日々に満足していたら、気づけば二十九歳になっていた。
同業者でありながら古くからの友人である笹川が結婚した時、篠宮は本気で祝福した。
ただ同時に、自分の状況を改めて自覚した。
――あれ、自分はまだ、お付き合いをしたことが一度もない?
このことを笹川に話したのは、ある夜、二人で飯を食っていた時だった。
「え、一回も?」
「ない」
「……一回も?」
「だから、ない」
笹川は三秒ほど黙った後、盛大に吹き出した。
「あははははは! その顔で! その容姿で! 漫画の世界の住人か!?」
「やかましい」
「ていうかあんた……もしかして処女?」
篠宮の顔が、じわじわと赤くなった。
「…………やかましい」
「赤くなってる! えっ、本当に!? いやもう彗は、ほんと、かわいいな!? 私が男ならこの場で襲ってたとこよ」
それから笹川はひとしきり笑った後、真剣にいろいろ話してくれた。
好きになるってどういう感覚なのか分からない、と篠宮が言うと、一瞬絶句された。
「じゃあ、これだけ覚えといて」
笑いが収まった頃、笹川が言った。
――誰かのことが頭から離れなくなった時。それがたぶん、好きってことよ
ピンとこなかった。
今も、正直よく分からない。
ただ、その言葉だけは妙に残った。
思い返せば声をかけてくる男性が少なかったわけではない。
ただ誠実で頼りになりそうな男性はたいてい妻子持ちで、残りは下心が透けて見えるタイプが多かった。
背中を預けて戦う相手に下心丸出しの人間は選べない。
敵と挟み撃ちにされるのと、感覚的にあまり変わらないからだ。
だから自然と流してきた。
我ながら、ちょっと寂しい結論ではあると溜息が漏れた篠宮は、今日の依頼が終わったら近くで旨い店を探そう、と考えながらギルドを出た。
その時、ふと、ある男の顔が頭に浮かんだ。
持田大福という男だ。
病院の廊下でケーキを渡した瞬間、顔がぱあっと明るくなった、あの男。
美味しいものを前にした時の、あの顔
自分も同じ顔をしているだろうな、と思った。
それより引っかかっているのは、現場で見た光景だ。
大きなお腹を丸出しにして気絶していた、自分より少し年上くらいの、ふんわりと丸っこい体型の男。その隣で、ぐちゃぐちゃに引き裂かれた黒狼の残骸。
あれを仕留めたのは、あの男だ。
状況から考えれば、それ以外の結論が出ない。
ただ、それとは別に、もう一つ気になっていることがある。
なぜこんなに頭から離れないのか、自分でも分からないのだ。
大変失礼だけど全然好みのタイプでもないし、ケーキを渡した時にすごく喜んでくれた顔が少し可愛いなと思ったくらいで、それだけだというのに。
篠宮は小さく首を振って、考えるのをやめ、ダンジョンのために必要な物資を準備することにした。
♢
その日のうちに、黒松ダンジョンの入口に立った。
さくっとこなして、帰りに美味しい店で幸せになろう。
それだけを考えていた。
入口は縦長の石組みの裂け目だ。
黒みがかった岩盤の壁、薄暗い通路、かすかな硫黄臭。
今のところ他の冒険者の姿はない。
短剣二本の位置を確認して、篠宮は踏み込んだ。
低層は通常通りだった。
エンカウントする魔物に異変はなく、特殊個体も見当たらない。
翼を持つ鳥型の魔物が低空から高速突進してくる。
羽音が聞こえた瞬間、篠宮はすでに動いていた。
一歩だけ右へ。
それで軌道が外れる。
すれ違いざまに短剣を一閃、音もなく落ちた。
角の先で、影に半身を溶かして移動する四足獣が待ち構えていた。
実態を隠し、自分の影を使って攻撃するタイプの魔物だが、篠宮には関係がなかった。
即座に実体がある前脚を見切って刺し、動きが止まった胴へ続けて二撃。
それで終わった。
「低層は異常なしっと」
小さく呟いて、中層へ向かった。
中層の手前で、足が止まった。
「……これは」
空気が、変わった。
重い。
ここまでとは明らかに違う何かが、前方から押し寄せてくる。
冒険者として長く潜っていれば分かる、魔物の密度が急激に跳ね上がっているあの感覚だ。
大抵こういう時は嫌なことが起きる。
じわりと、背中に冷や汗が滲んだ。
前方、左前方、右前方。背後ぎりぎりにも。
低層には出てこないはずの気配が複数あった。
一旦引き返すか。
いや、まだ情報が欲しい。
どこまで異常が広がっているのかを掴まないことには、ギルドへ正確な報告もできないからだ。
篠宮は慎重に進んだ。
一体ずつ確実に仕留める。
回復薬は温存する。
消耗させられる相手とは距離を取る。
数は多いが、まだ捌ける。
そう判断した時だった。
ドン、と重い振動が足元から突き上げた。
次の瞬間、背後で轟音が炸裂する。
振り返ると、後方の通路が内側から爆ぜたように砕け、天井ごと崩れ落ちていた。
砂埃が波のように押し寄せ、視界が白く塗り潰される。
咳き込みながら目を凝らす。
――通路は、完全に塞がれていた
「……今日、本当に厄日だ」
早々に終わらせて帰りにごはんが美味しい店で幸せになるつもりだったのに。
内心で毒づきながら、篠宮はポケットの金属筒を迷わず取り出した。
折り曲げると封入された素材が砕け、表面が青く光る。
これで冒険者ギルドに緊急事態の知らせは届いたはず。
救援が今夜のうちに来るかは分からないが、送れることは送った。
引き返せない以上、前に進むしか選択肢がない。
中層は、想定外の連続だった。
地図が役に立たない。
通路の配置が記録と全く違う。
魔物の密度も規模も、ここまでとは次元が違った。
戦いながら脱出路を探す。
回復薬を一本使った。
残りは一本。
体力はまだある。
ただ、長引けば終わる、というラインが見え始めていた。
そこへ。
前方の通路の奥から、ひときわ重い気配が漂ってきた。
床を伝わってくる低い振動。纏っている圧が、これまでとは次元が違う。
床を伝う低い振動。纏っている圧が、これまでとは違う。
少なくとも、中層で遭遇していい魔物ではない。
深層でも相当な格を持つ個体だ。
完全なイレギュラー。
ここにいるはずがない存在だった。
「……本当に厄日すぎる」
巨大な影が、暗がりから姿を現し始める。
紫色のオーラを纏った、熊のような化け物
白馬の王子様なんて信じていないけれど、今だけはかっこよく私を助けにきてくれないかな。
篠宮は、心の中だけでそう呟いた。
当然、誰も来ない。
篠宮は静かに息を吐いて、迫る影と向かい合った。




