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第8話 モンスターハウスで絶体絶命

 カチッ。


 足元で、乾いた音がした。


「……ん?」


 ものすごく嫌な予感がした。

 次の瞬間、周囲の壁に刻まれていた薄い溝が、ぼうっと赤く光る。


「は? いやいや待って待って待って――!?」


 ガコンッ!


 背後の通路に石壁が落ちた。

 前方の壁も閉じる。

 左右の壁がずれ、暗い穴がいくつも口を開けた。


 ぞわぞわぞわっ。


 穴の奥から、気持ち悪いほどの気配が湧く。


「……やばいやばいやばいマジでやばい! モンスターハウスだ!!」


 ついさっきまで「俺、強くなったわぁ」とか調子に乗っていた、その数秒後がこれである。

 入口で聞いた噂が、よりによって俺の足元で現実になりやがった。

 死亡フラグ回収ってフィクション用語じゃなかったのか。

 現実に出張してくんな。

 ましてや俺で回収すな。


 ――なんて現実逃避している場合じゃない!


 暗い穴の奥で、泥が跳ねた。

 次の瞬間、ぬちゃぬちゃ、がさがさ、ずるずると、嫌な音が四方八方から押し寄せてくる。


 泥まみれの鼠マッドラット

 泥まみれの水玉の物体マッドスライム

 泥まみれ蛙マッドゲロー

 泥まみれの甲殻虫マッドインセクター


 視界の端から端まで、泥の上を這う殺意むき出しの影で埋まっていく。


「いやいや多い、多いって! これはもう戦闘じゃねえ蹂躙だろ!?」


 叫んだ直後、視界いっぱいに影がなだれ込んできた。


 ――来るッ!!


 考えるより先に、身体が動いた。

 腹の奥に沈んだ蓄積カロリーを汲み上げ、全身に一気に纏わせる。


──────────────

【蓄積カロリー消費:8,000 kcal】

【蓄積カロリー:36,200 → 28,200 kcal】

【筋力:76 → 131(+55)】

【体力:81 → 136(+55)】

【敏捷:49 → 108(+59)】

【強化持続:継続中】

──────────────


 ぶわっ、と腹の奥から熱が噴き上がった。


 視界が開く。

 音が近くなる。

 迫っていた魔物の動きが、わずかに遅く見える。


 俺は泥を蹴った。

 強化された脚力が泥を爆ぜさせ、身体を前へ押し出す。


「おらぁッ!」


 正面から飛びかかってきたマッドラットを短剣で斜めに斬り裂き、返す勢いのまま短剣の柄でスライムを叩き潰す。

 足元に群がるマッドインセクターは蹴り飛ばす。


 一体、二体、三体。

 泥が跳ね、粘液が飛び、刃が肉を裂く音が、耳に刺さる。


 いける。

 最初の数体は面白いように倒れていく。

 カロリーで強化された身体能力のおかげでどうにか対応できそうだ。

 これならどうにか押し返せる――


 ――そう思ったのだが、かれこてもう何十体か倒しているのに終わりが見えない。


 倒しても倒しても一向に減る気配のない魔物の群れに焦りが加速していく。


 一体斬れば影から二体出る。

 踏み潰した足元に、さらに三体が群がる。

 短剣を振るうたびに泥が跳ね、刃が滑り、濡れた毛と粘液に勢いを殺される。


「くっそ、いつまで続くんだ!」


 マッドラットを蹴り飛ばした瞬間だった。

 左肩にぴしゃりと冷たいものが張りついた。


「うげっ……! マッドスライムの粘液だ!」


 肩から腕にかけて、重い粘りによって動きが鈍る。

 どうにか剣を振り払おうとしたが、一瞬遅れた。


 その一瞬を、群れは見逃さない。


 これ見よがしに足元にマッドゲローとマッドラットが殺到する。

 そして、まともに体当たりを食らう。

 強化されても流石に、踏ん張り切れずに体制が崩れる。


 「やべっ!」


 体勢を立て直すより早く、横からマッドインセクターが顔めがけて跳びかかってくる。

 反射的に剣を振り抜いてどうにか払うが、その隙に太ももへマッドラットが食らいついた。


「くぅ、痛ってえな! このっ!」


 短剣で刺し殺すが、結構大きなダメージをもらい、さらに動きが鈍る。

 これ以上のダメージを受けたら、もうさばききれない。

 というのに、視界の端では、次の群れがもう迫っている。


 息が整わない。

 多勢に無勢がすぎる。

 いくら身体強化したところで、この数は無謀だ。

 このままでは均衡が崩れて、噛まれて、絡まれて、押し潰され、最後は……死ぬ。

 そんな惨たらしい未来しか見えなかった。


「もうやるしかねえ!」


 俺は右手を握った。


 黒狼を倒した喰滅掌デボウア・スマッシュに全てを賭ける!


 ただし、後先何も考えずにぶっ放すのは論外だ。

 試したことがないので、絶対とは言えないが蓄積カロリーが空っぽになると恐らく気絶する。

 黒狼の時の感覚からして、その可能性が非常に高い。


 そうなれば、仮に目の前の群れを押し返せたとしても、その先はない。

 なんせダンジョンで気絶したら、モンスターハウスとは関係ない魔物から殺られる。


 なら俺が生き残るためにやることは決まった。


 ――蓄積カロリーを空にしないギリギリで、喰滅掌デボウア・スマッシュをぶっ放す


 この場の魔物を、まとめて吹き飛ばす。

 あらかた片づけば御の字。


 残ったやつ?

 知らん。その時の俺が泣きながら考える。

 後は野となれ山となれ作戦だ。


 ……我ながら無茶を言っている。


 ああ、くそ。

 蓄積カロリーがたっぷりあって、敵が少なくて余裕があった時に試しておくべきだった。

「気絶するリスクあるし、なんか怖いから後回しでいいか」なんて日和ひよっている場合じゃなかった。

 そのツケが最悪なタイミングで請求書を叩きつけてきた。

 内訳は、泥と粘液と大量の魔物。

 支払い方法は命。

 いや高い。

 調子に乗っただけで命まで持っていくな。


 切り替えろ、俺、反省は後だ。

 今は、生き残る!


 腹の奥から、右拳へカロリーを流す。

 黒狼の時、勝手に拳へ集まったあの熱。

 身体の内側から噴き上がって、右手に押し寄せた、あの危険な感覚。

 それを必死に思い出せ!


 身体強化とは違う。

 これは熱量カロリーを拳撃そのものに変える感覚だ。


 全身の蓄積カロリーを根こそぎ持っていかれたら、そこで人生終了。

 制御に全神経を集中させろ。


 右拳へ。

 右拳だけへ。


 全部じゃない。

 持っていくな。

 カロリーを空っぽにするな。


 蛇口を慎重にひねるみたいに、力の勢いを絞る。

 少し。いや、もう少し。


 絞りすぎれば、魔物に押し潰される。

 開けすぎれば、俺が気絶する。


 ギリギリ。

 倒れない程度に。

 けれど、この群れを吹き飛ばせるだけのカロリーを――右拳へ。


 じゅっ。


 手の奥で、何かが激しく燃えた。

 脳内にステータスが表示される。


──────────────

喰滅掌デボウア・スマッシュ:発動】

【投入カロリー:20,000 kcal】

【蓄積カロリー:28,200 → 8,200 kcal】

──────────────


「20000……ッ!」


 絞ったつもりで、これかよ。

 高級焼肉どころか、そこそこいい旅館の夕食が拳に吸い込まれていく気分だ。


 だが、蓄積カロリーは残せた!


 右拳が、内側から燃えた。

 熱い。痛い。

 だが、それ以上に――力が湧く。


 膨大で暴力的な力が、拳の中に強引にねじ込まれていく。

 赤い光が脈打つように明滅し、泥まみれの通路が燃えるような赤に染まる。


「まとめて――吹っ飛べぇぇぇッ!」


 拳を地面に叩き込む。


 ドゴォォォンッ!!


 轟音が弾け、地面が爆ぜた。


 足元の泥が噴き上がり、衝撃波が円形に広がる。

 迫っていた魔物の群れが、まとめて飲み込まれた。


 マッドラットが宙を舞う。

 マッドゲローが壁に叩きつけられる。

 マッドスライムが水風船みたいに弾け飛び、マッドインセクターの殻がばきばきと砕け散る。


「うおおおおおッ!?」


 当然、撃った俺も無事では済まなかった。

 反動で身体が後ろへ吹っ飛び、背中から壁に激突する。


「ぐっ――!」


 肺から空気が抜けた。

 視界が白く弾ける。

 耳の奥でキィンと嫌な音が鳴った。

 それでも、意識はある。

 あるのだが――。


「……っ、う……ぐ……」


 ずるり、と壁を背にしたまま泥の上へ座り込む。

 立ち上がろうとしても、膝に力が入らない。


 腹の奥がごっそり空洞になっていた。

 腹が減った、なんて生やさしいレベルじゃない。

 身体を動かすための燃料を、内側から無理やり引き抜かれたような感覚だった。


 ぐぅぅぅぅ、と腹が鳴る。

 腹の虫というより悲鳴だった。


「……出力、絞って……これかよ……」


 次の一撃なんて、とてもじゃないが出せそうにない。

 だが、倒れたままでいる方がもっとまずい。


 俺は短剣を杖代わりにして、泥の上からどうにか身体を起こした。

 膝が笑う。

 それでも、立った。


 ふらつきながら周囲を見回す。

 砕けた殻、散った泥、動かなくなった魔物たち。

 少なくとも、すぐに襲いかかってくる気配はない。


「……勝った、のか?」


 声に出して、ようやく実感が追いついてきた。

 生き残った。

 モンスターハウスを、どうにか切り抜けた。


 だが、喜びより先に背筋を冷たいものが這い上がる。


 ――喰滅掌デボウア・スマッシュ


 威力は文句なしだ。

 スタンピードのボス個体撃破に加え、絶体絶命のモンスターハウスすらも塵に変えた。

 間違いなく、この力は切り札になる。


 ただし、今のままじゃ駄目だ。

 出力を絞ったつもりで二万カロリー。

 反動で動けないとか話にならない。


 強すぎて、俺がまだ扱いきれていない。

 撃てば状況をひっくり返せるが、使いどころを間違えた瞬間に死ぬ。


 狙った分だけ燃やして、狙った威力だけ出す。

 そういう使い方ができるようにならないと、これは本当の意味で俺の力にはならない。


「……うん、これは、マジでもっと検証しておこう」


 泥の上に座り込んだまま、天井を見上げた。

 ぽた、ぽた、と水滴が落ちてくる。


 さっきまであれだけ騒がしかった通路は、嘘みたいに静かになっていた。

 聞こえるのは、自分の荒い呼吸と、情けないくらい元気に鳴る腹の音だけだ。


 ぐぅぅぅぅ。


「……今日は、もう無理だな」


 数日こもって検証するつもりだったが、この状態で続けるのは検証じゃない。自殺だ。

 俺は非常食のカロリーバーとゼリー飲料を腹に流し込む。

 少しだけカロリーは戻った。


「とりあえず、回収できるだけ魔石を拾って帰ろう。今日はもう無理……」


 反動で足元はまだふらつく。

 だが、ここで立ち止まっている余裕はない。


 砕けた殻。

 散った泥。

 動かなくなった魔物たち。


 その中に、小さな「魔石」がいくつも転がっていた。


 置いて帰れるほど、俺の財布は強くない。

 魔石は金。金は飯。飯はカロリー。

 そしてカロリーは、俺の命綱だ。

 つまり、生存戦略である。


 拾えるだけ拾っていると、ふと指先が止まった。


「……ん?」


 一つだけ、色が違う。


 泥を拭うと、深い青が覗いた。

 他の小粒とは、大きさも重さもまるで違う。


「……おいおい」


 冒険者歴十年以上。

 地味な依頼ばかりこなしてきた俺でも分かる。

 これは、低層の魔物が落とすような魔石じゃない。


「……マジかよ」


 帰ろうと思った矢先に、これか。


 薄暗い通路の中で、青い魔石が鈍く光っていた。

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