第7話 飯は力なり、ただし食費は敵なり
中は、外よりさらにひどかった。
壁にはぬめった苔。足元には泥。天井からは、ぽた、ぽた、と水滴が落ちている。
一歩進むたび、靴底がぐちゅりと嫌な音を立てた。
空気は重く、ぬるい。
湿った土とカビを鍋で煮詰めたような臭いが、鼻の奥にまとわりつく。
「……人気がない理由、入口から全力で説明してくるな」
入る前から帰りたかった。
入ってからは、もっと帰りたくなった。
だが、ここまで来て引き返すというわけにもいかない。
文句を言いながらも、足は前に進めるしかなかった。
そういえば、前にも数回、成り行きで仕方なく泥穴に潜ったことがある。
その時、同行していた冒険者がこんな話をしてくれた。
――泥穴は、低層でも稀にモンスターハウスが残ったままになっていることがある
ギルドも年に数回は見回りをしているが、常に巡回しているわけではない。
そもそもダンジョンというものは、普通の建物と違って、常に同じ状態を保っているわけではないらしい。
ダンジョンに意思があるのか、魔力の流れに反応しているだけなのか、あるいは別の仕組みがあるのか。
いくつか説はあるが、いまだに結論は出ていない。
ダンジョンには解明されていない部分が多く、これもその一つだそうだ。
そういう不安定な性質のせいで、放っておくと魔物の溜まり場ができたり、古い罠が再び反応するようになったり、新しいギミックが突如仕掛けられたりすることがある。
人気のあるダンジョンなら、冒険者が踏んで処理しているうちに自然と片付いていくが、ここはそうもいかない。
つまり、足を踏み入れる側からすれば、何が残っているか分からない。
「……足元には気をつけて進まないとな」
俺はそう呟いて、泥だらけの床に目を落とした。
……いや、見えねえんだけど。
ぬかるみと泥で、床の模様も罠の有無も何もわからない不親切な設計。
前にも同じことを思った気がするが、やっぱり怖すぎるだろ、ここ。
不人気の理由が、臭いとか汚いとかだけならまだよかった。
見えない床に、見えない罠。
これで平常心を保てという方が無理だ。
「うへぇ……検証する前から、もう心が折れそうなんだが。とはいえ、そんなことも言ってられないよな」
まあ文句を言ったところで、状況がマシになるわけでもない。
俺は半分泣きたい気持ちを押し込めながら、足元に注意して進み、頭の中でスキルの内容を整理し直した。
今の俺は、魔力を失った代わりに、蓄積カロリーを媒介にしてスキルを発動できる、とのこと。
魔力の代わりに、カロリー。
つまり、飯が燃料だ。
……改めて考えなくても、だいぶ意味が分からない。
食って蓄えたカロリーを消費すれば、そのぶん一時的に身体能力を底上げできるらしい。
スキルの説明をステータスで見た時点で、俺にとって非常に都合のいい能力だということは理解していた。
ただ、問題は使用感だ。
どれくらいカロリーを消費すれば、どれくらい身体能力が上がるのか。
消費したあと、空腹や倦怠感、眩暈はどの程度出るのか。
強化はどれくらい続くのか。
維持している間もカロリーを消費し続けるのか。
そもそも、消費するカロリーを俺の意思で調整できるのか。
そのあたりは、実際に使ってみなければ分からない。
そして、一番気になるのは、やはり喰滅掌だ。
スタンピードのボス個体だった黒狼を倒した時、俺はあの一撃の直後に気絶した。
あれは、蓄えていたカロリーを全部ぶっぱなした反動だったのか。
威力を俺の意思で調整できるのか。
それとも、発動した時点で問答無用の全消費なのか。
そもそも、安全に使えるのか。
万が一、ダンジョンの中で気絶したら、その時点で死ぬ。
だからこそ確かめておきたい……確かめておきたいのだが、正直、検証するのが怖すぎる。
とはいえ、怖いからと使わないままでは、せっかくのスキルも宝の持ち腐れだ。
それに、俺にも切り札と呼べるものが一つあるだけで、生存率はかなり変わる。
できることなら、あの一撃を自由に扱えるようになっておきたい。
とまあギルドに行く前に、できる限り把握しておきたいところ。
そんなことを考えていると、足元の泥がぬちゃりと動いた。
「……うわ、マッドラットか」
現れたのは、犬ほどの大きさの鼠型魔物。
泥まみれの灰色の毛、濁った目、長い前歯。
このダンジョン低層の定番モンスターだ。
大した脅威はないが、戦闘後にめっちゃ汚れるから嫌いだ。
「検証だし、まずは普通にスキルなしで戦うか……」
マッドラットが泥を蹴る。
ばしゃっ、と泥が跳ねた。
低い姿勢のまま、弾丸みたいに突っ込んでくる。
濡れた毛並みが揺れ、剥き出しの前歯が鈍く光った。
――あれ?
以前なら速いと感じていたマッドラットの動きが、今は妙にはっきり追える。
しかも、身体が軽い。
これなら余裕で避けられる!
俺は泥を踏みしめ、半身になって突進を流す。
マッドラットの牙が脇をかすめた瞬間、短剣を横薙ぎに振り抜いた。
ザシュッ。
刃が胴を通り、マッドラットは泥の上を転がった。
何度か痙攣したあと、そのまま動かなくなる。
胸元あたりに、小さな魔石が覗いていた。
「……おお。普通に倒せる」
少し感動した。
以前の俺なら、低層の相手でももう少し泥臭い戦いになっていた。
だが、今は違う。
スタンピードを乗り越え、レベルが上がり、スキルを使わない素の状態でも、基礎能力がかなり底上げされていることを強く実感した。
ちゃんと強くなっている。
そう実感した瞬間、思わず笑みがこぼれた。
だが、ここからが本番だ。
気を抜くにはまだ早い。
次は、暴食覇道を使う。
俺は、意識を身体の奥へ向ける。
そこには、食べて蓄えたカロリーの感覚があった。
腹の底に沈んだ、熱の塊みたいなもの。
それを無理やり燃やすのではなく、必要な分だけ汲み上げるに意識する。
初めて、自分の意思で使うスキルだ。
いきなり全力で回して、身体がどうなるかも分からない。
だから慎重に。
丁寧に。
汲み上げた熱――カロリーを、全身に薄く纏わせるイメージで広げていく。
ぶわっ。
――身体の内側で火が広がった。
同時に、視界の端にステータスが浮かぶ。
──────────────
【蓄積カロリー消費:5,000 kcal】
【蓄積カロリー:64,911 → 59,911 kcal】
【筋力:76 → 101(+25)】
【体力:81 → 106(+25)】
【敏捷:49 → 78(+29)】
【魔力:0】
【強化持続:継続中】
──────────────
「……ま?」
筋力101。
体力106。
敏捷78。
魔力0これはもう無視でいいわ。
いや、それよりも他の伸び方おかしいだろ!
筋力が100を超えている。
冒険者の感覚で言えば、筋力100超えはもう下級の域じゃない。
低層で小銭を稼ぐ連中の数字じゃない。
少なくとも、前の俺なら「明らかに格上だ」と距離を取りつつ、内心ではうらやましくて妬ましくなる側の数値だ。
「いやいやいや、これ普通に反則だ……!」
ただ、その代わりに5,000 kcal持っていかれた。
今でこそ食いだめしているから余裕があるように見えるが、普通に考えればかなり重い。
強化のたびにこれだけ削られるなら、使いどころは選ぶ必要がある。
それでも効果はえげつない。
食ったものをカロリーとして蓄積して、それを燃やして、能力値そのものを無理やり押し上げている。
強くなるには食わなきゃいけない。
いっぱい食わなきゃいけない。
堂々と、胸を張って、大義名分つきで食える。
「マジかよ……最高かよ!」
俺の人生、ついに食欲と戦闘力が手を組んだ!
最強タッグの誕生だ。
「……ん? 待てよ」
蓄積カロリーはまだある。
だが、減った分を戻すには、当然そのぶん食わなきゃいけない。
つまり、食費がかかる。
「冷静に考えて、食費えっぐいことにならないか……?」
強い。
便利。
最高。
だが、思った以上に金を稼がないと、これからやっていけなくなる未来が見えた。
とはいえ、効果は反則級に強いし、しこたま食べられるという大義名分を得られたのだから文句なんて言ってたら罰があたるってもんだ。
にしても、凄まじいな、めちゃくちゃ力が昂ぶってくる。
調子ぶっこいてしまいそうなくらいに全能感がやばい。
なんかもう、脳内で勝手にBGMが流れ始めてきた錯覚すらある。
覚醒した主人公が無双する系のあれだ。
うん、今の俺、完全に主人公の顔してるな(キリッ)。
試しに軽く地面を蹴る。
軽く。
本当に軽く蹴ったつもりだったが。
「うおっ!?」
どんっ、と泥が爆ぜた。
身体が思ったより跳ねる。
一歩進むつもりが、三歩分くらい飛んだ。
ぐしゃっ。
肩から壁に突っ込む。
「ぶひっ!?」
苔。
泥。
壁。
三つまとめて肩で受け止めた。
痛い。
普通に痛い。
しかも、ぬるい泥と苔が肩から頬にかけてべっとり張りついた。
臭い。
めちゃくちゃ臭い。
「……これ、宝の持ち腐れどころか、宝に殴られてる気分になるな」
能力値は上がった。
だが俺の感覚が追いついていない。
今までの身体のつもりで動くと確実に事故る。
使いこなすには、感覚と動きをすり合わせる必要だな。
俺は深呼吸し、今度は力を抜いた。
踏み込みは短く。
腕も振り抜きすぎない。
少し進んだところで、またマッドラットが飛び出してきた。
グッドタイミング!
ばしゃっ。
泥を蹴って迫る影。
俺は短く踏み込み、短剣を振る。
ザンッ。
今度はちょうどいい。
刃が滑らかに通り、魔物が泥の上に崩れ落ちた。
「よし。慣れればいける」
しばらく、カロリーの消費量を変えながら戦ってみることにした。
カロリー消費を最弱まで絞る。
逆に増やす。
切る。
また入れる。
しばらく繰り返す。
体感と傾向は、だんだん掴めてきた。
暴食覇道は、発動時にまとまったカロリーを消費する。
その後も、強化を維持している間はじわじわ削られ続ける。
さらに、一度切って入れ直すと、そのたびに立ち上がりの消費がかかるらしい。
ただ、集中力は使うものの、消費するカロリー――つまり出力は、ある程度俺の意思で調整できることも分かった。
その後も、低層の魔物を相手に検証を続けた。
マッドラット、泥まみれの水玉の物体、泥をまとった小さな蛙。
どれも低層に出る魔物が検証相手なので得に労もなく倒せた。
順調に倒していくうちに、ステータス画面の数字も気が付けばだいぶ少なくなっていた。
──────────────
【蓄積カロリー:36,200 kcal】
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「うん、大方検証はできたな。やっぱり、これ最高のスキルってことは疑いようがないな」
いや、本当に良いスキルを手に入れた。
不謹慎だけどスタンピード様様だな。
正直、魔力を失った時は「あ、終わった」と思ったが、まさか飯がそのまま力になるとは……。
食えば強くなる。
強くなれば稼げる。
稼げば、また食える。
……完璧な循環では?
そんなことを考えているうちに、少しだけ気が緩んでいたのだと思う。
さっきまであれほど足元を警戒していたのに、視線はステータス画面と先の通路ばかりを追っていた。
カチッ。
足元で、乾いた音がした。
「……ん?」




