16:30-17:10 生還
悠馬は夢を見ていた。
『……悠馬? おい悠馬!?』
『熱中症か! 大丈夫か、木城!』
『悠馬君!』
高校時代。ユニフォーム姿の先輩と顧問の先生、マネージャーの声である。実際に部活の練習中に倒れてしまった、かつての記憶が再現されている。
『全員一旦休憩だ! 水分と塩分の補給を忘れるな! ……佐藤。木城を頼めるか?』
『はい! ……悠馬君、立てる?』
結局、その日の部活は危険と判断されて中止とされた。そして悠馬はマネージャーの佐藤先輩に付き添われて保険室に向かった。しかし保険室には誰もいなかったため、佐藤先輩の介抱を受けた。それだけなら、ただの失敗談として済んだ話である。
『………………』
『ち、ち、ちがうの! これは……ッ!』
当時同じ高校に通っていた悠馬の姉が、保健室の窓にベッタリと張り付いていた。真夏の炎天下にも関わらずにである。
そんな姉の奇行に余程驚いたのか、佐藤先輩の顔は真っ赤に染まっていた。その事が、悠馬が姉に感じた羞恥心とセットで記憶に焼き付いている。
あの時佐藤先輩は悠馬のユニフォームを脱がしにかかっていたが、それはあくまで悠馬を介抱するためであり、それ以外の意図などなかった。……決してなかったはずである。
────
───
─
「───ウマ、ユウマ! うなされているな。無理もない」
《うぬ、しっかりせい悠馬よ!》
夢から覚醒しつつある悠馬の耳に、女性の声と老人の声が、激しい水音に混じって聞こえてきた。次第に、悠馬の目蓋がゆっくりと開かれていく。
「お、気付いたか。私が分かるか?」
「ネーヴェ……さん? ヒィッ!!」
自身に覆い被さる女性──ネーヴェリアに焦点が合った時、悠馬は短い悲鳴を上げた。そんな悠馬の反応に、彼女は傷ついたような表情になる。
「ネーヴェさん。ちょっとそれ、大丈夫っスか!?」
「……え?」
何やら心配するような声に、ネーヴェリアは表情を怪訝なものに変えた。
《あー嬢ちゃんの顔、返り血で血まみれじゃ。すっかり言うのを忘れとったわい。……儂も人の事は言えんがの》
傍らに立つ自転車の言う通り、ネーヴェリアは頭からペンキでも被ったかのように真っ赤に染まっていた。かく言うガイアも似たようなものである。
「そうだった。何かぬぐうものは……無いな」
ネーヴェリアは自身をまさぐりながら眉をひそめる。悠馬も自分の服の大部分が、赤く鉄臭い粘液に汚れている事に気がついた。
「うわぁ……何っスかこれ」
《なにって、グランドドラゴンの返り血じゃ。後ろを振り向いて見るといい》
「後ろっスか?」
「待てユウマ! 心の準備を」
ネーヴェリアが言い終わる前に、悠馬は地面に座ったままの姿勢で後ろを振り向く。
「ーーーーッ!!!」
悠馬の視界に、頭の割れたグランドドラゴンが飛び込んでくる。その前には、先にガイアに接続していたと思しき血濡れの鉄塊──巨大なドリルが転がっている。
瞳に大きく映し出されたグロテスクな姿に、悠馬は悲鳴を上げそうになった。真っ赤な夕焼け空を背景に佇むその亡骸は、恐怖の一言に尽きる。
遠くから聞こえるバケガラスの濁った鳴き声が、その不気味さを余計に演出している。
《まぁ、危険で偉くしぶとい奴じゃったが、こうなってしまうと哀れなものじゃの》
「そうかもな。ユウマ、平気か?」
「……なんとか大丈夫っス。けど、そうっスよね。こうでもしないと、自分達が危なかったっスからね」
悠馬は顔を青ざめさせながらも応える。目の前の死骸──グランドドラゴンを殺害した事の正当性を、自らに言い聞かせるような様子である。
「けど、グランドドラゴンもっスけど……周りも何か凄い事になってるっスよ?」
悠馬は気を取り直すように言う。彼の言う通り、グランドドラゴンの周囲は大量の光り物で埋め尽くされていた。
ほとんどは剣、槍、斧、鎚、盾、兜、鎧といった武器防具であるが、ネックレスや指輪といった装飾品、金銀銅の貨幣なども確認できる。さらに変わった所では、馬車のフレーム及びその車輪、文字が彫られた金物の看板、女性と思しき人型の銅像といった物まで見える。
《確かに凄いの。まさに宝の山じゃ!》
「恐らくはグランドドラゴンが死んだ事で、収納魔法が解けたのだろう。私の奪われた剣や鎧も、この中にあるはずだが……」
単に剣や鎧といったものであれば、ざっと見ただけでも大量に発見できる。そこから自分のものを見つけるのは骨が折れそうだと、彼女はため息を漏らした。
「ア、いたイタ! みんな、コッチだヨッ!!」
グランドドラゴンの亡骸と大量に散らばる金属類の前に佇む悠馬達に、バサバサと飛来して来る存在があった。パッションピンクのユニを先頭とする六体のハーピー達である。
「スッごーーイ! 本当ニ、あのグラントドラゴンをヤッつけちゃったんだネッ!!」
「ほへー、コリャ凄いネ。ヤッタじゃなイ! アンタ達ッ!!」
「ピッ!」
「ネーヴェ様! 皆様モ御無事で何よりですゾ! 先程はユニの合図で思わず放してしまいましたガ、まさかコレを狙っていたとハ! 小生は思いつきませナンダ」
口々に賞賛を伝えるハーピー達に、ネーヴェリアは苦笑を浮かべた。
「私も思いつかなかったがな。ユニ、ちょっと来い」
「ン? なにナニ?」
ネーヴェリアに呼ばれたユニは、彼女が差し出した左腕に飛び乗った。次の瞬間、ネーヴェリアの右手がガッシリとユニの頭を掴み上げたのである。
「な・ん・で、お前は私に相談しないで勝手に動くんだッ! 放すならせめて一言ぐらい言えッ! 死ぬかと思ったぞッ!!」
「ネーヴェ痛イゴメン放しテ謝るかラ痛イ」
頭だけが鷲掴みにされてぶらりと宙に浮かぶユニの姿に、この場にいるハーピー達が震え上がった。なおもネーヴェリアの説教は続く模様である。
「そもそも私は村の周辺を警戒しろって言ったよな? 誰が持ち場を離れて良いと言った! お前達が勝手に動いたら全体の指揮が狂うと何度言えば 《あー、その辺にしといたらどうかの? 折角の勝利が台無しになってしまうぞい?》
ガイアの呼び掛けに、ネーヴェリアはピタリと口を閉ざした。すると、彼女は左腕でユニを抱え直した後、その頭を優しく撫で始めたのである。
「イタタ……ン、ネーヴェ?」
「そうだな。ガイア殿の言うとおりだ。確かにお前達の働きがなければ、こうしてグランドドラゴンを倒す事など叶わなかった。
ユニ! それにリプ、ペタ、クア、ヘク、ルヌ! よくやったぞッ!!」
「ネーヴェ!」
「「「「ネーヴェ様ッ!」」」」
「チー!」
ネーヴェリアは、今度こそ笑顔を浮かべた。それにハーピー達が歓声で応える。
「……これで良かった、っスよね?」
《うむ。正直危ない所もあったが、それでも儂らは勝ったのじゃ! じゃからこそ、ああして笑い合う事だって出来る。負けたら死んで終わりじゃからの》
ガイアの発言に、悠馬は重々しく頷いた。
「ところデ、ジェームズ様……滝の上でご協力を頂いた方々ですガ、コチラに向かうとの事デス。崖を迂回して来るとの事デ少し待っていて欲しいト」
歓声が収まったタイミングで、紺色のハーピーが報告した。ジェームズ達と一時的に行動を共にしていたハーピー、クアである。
「了解した。彼らにも助けられたな。改めて礼を言わねば。……クア、彼らの案内を頼めるか? この辺りは道も無いからな」
「承知しましタ。行って参りまス!」
ネーヴェリアの頼みにクアは了承を告げると、その場から飛び去って行った。
「そうだ、この勝利を魔王様にもご報告しなければ。リプ、それにペタ。行けるか?」
「そうですナ。きっとお喜びになるト思いますゾ!」
「了解。ちょっクラ行ってくるヨ!」
続くネーヴェリアの頼みに、朱色と紺色の一組が応じる。
「───ト、その間にアンタ達は水浴びでもして来たラ? 酷イ格好だヨ?」
「それガ良いですナ。アチラのすぐ近くに滝壺がありましたゾ!」
そんな言葉を残し、リプとペタも飛び去って行った。
「なるほど水浴びか。確かに魅力的な提案だが、着替えがな……」
「自分にも着替えは無いっスね。タオルも無いっス」
難しい顔をするネーヴェリアに、悠馬が座ったまま応える。そうした彼らの反応に、ユニが不思議そうに首を傾げた。
「ン? 着替えが無いなラ、今着てるのヲ洗えればイイんじゃないかナ? 焚き火の周りにでも干しておけバ、結構乾くと思うヨ」
「いや、そうかもしれんが、そうするには問題があってだな」
着替えが無い以上、服が乾くまで裸でいなければならない。ネーヴェリアも女性である以上、男の悠馬に自らの裸をひけらかすのは抵抗を覚える。
「………………いや」
その時唐突に、既成事実の四文字が脳裏に浮かんだ。これは、むしろチャンスである。
裸など見せつければ良い。濡れた体は互いに素手で拭えば良い。冷えた体は焚き火の前で、肌を合わせて暖め合うのが良い。それから
《あ、着替えとタオルなら用意できるぞい。
───【キャリーボックス】 あーんど
───【サモン・アメニティ】!》
ガイアの後ろに、ガチャリと音を立ててリアカーが現れた。そこには様々な物資が積まれている。
「ええと、浴衣にタオルにサンダルに……お、『ワールドウォッシュ』まであるっス! 凄いっス、ガイア!」
《まぁそれほどでも……あるかのう》
悠馬は目の前に現れたリアカーの中身に喝采を上げた。座ったままの姿勢で改めて中を確認すると、浴衣と樹脂製のサンダルが二組、バスタオルとハンドタオルがそれぞれ十枚ほど揃えられている。
さらには黄色いプラスチック製の桶まであり、その中に櫛、歯ブラシ、綿棒などが入れられている。
ちなみに、悠馬が言った『ワールドウォッシュ』とは、髪や身体、服なども洗える液体洗剤の商品名である。化学成分を一切使わず微生物により自然に分解されるため、アウトドアでも安心して使用できる。悠馬の会社でも時々引き合いのある商品である。
「…………チッ」
ネーヴェリアの口からは小さく舌打ちの音が鳴ったが、少なくとも悠馬とガイアはそれに気付かない。
「エ、エエと、火を焚くんだよネ? それならボク、燃えそうな枝とか拾ってくるネ〜……」
「拙者も行くでゴザル」「チ!」
ネーヴェリアの機嫌の悪化をいち早く察したユニが、適当な理由をつけてその場から飛び去って行った。残り二体のハーピー達も後に続く。
「枝集めっスか。それなら自分も手伝うっス。……よいしょっと」
そう言って悠馬が立ち上がろうとした、次の瞬間である。
「ーーーーッ!!! イッダあぁーーッ!」
悠馬はもんどりを打って、その場に倒れてしまったのである。
《悠馬ッ!!》
「ユウマッ!?」
ガイアが叫び声を上げ、ネーヴェリアの目が見開かれる。
「吊ったつった! 太ももがビキッと……くぅッ! 両方同時は初めてっス。ううう……」
思い返せば、悠馬は今朝からずっと自転車を漕ぎ続けていた。特に、つい先程までの逃走劇は、悠馬にとって肉体的に、精神的にも熾烈を極めるものであった。その緊張の糸がようやく解けた事により、両足に蓄積された疲労が一気に出てきてしまったのであろう。
「待ってろ! 足だな!?
───【ヒール】!!」
ネーヴェリアが悠馬に被さり、太ももに手を置いて回復魔法を発動した。次第に患部から硬さが抜けていき、悠馬の様子は落ち着いたものになっていく。
「…………」
「……その、スンマセン……っス」
悠馬が謝ったのは、治療の手間をかけた事だけではない。自身が失禁していたためでもある。先にガイアが垂直落下での強襲をかけた際に、恐怖のあまり漏らしてしまったのである。
濡れた股間の不快感がある。アンモニア臭は周囲の血の匂いに紛れているが、股間付近で太ももの治療に当たるネーヴェリアには、誤魔化しようがない。
「良いんだ。気にするな!」
しかしネーヴェリアは、悠馬に笑みすら見せる。一切の嫌悪感も見られない。
「オホン! 私の回復魔法は、怪我の出血や打ち身による内出血には効果的だが、筋肉痛などには今一つでな。だからこれは、あくまで応急処置だ。なるべく安静にしてほしい」
「了解っス。いや本当に助かるっスよ。大分楽になったっス!」
悠馬は素直な感謝を示す。それを受けてネーヴェリアは満足そうに頷いた。
「そうだ。ユウマは先に水浴びをしてきたらどうだ? ついでに服も洗って来ると良い。私は火の準備をしてから行こうと思う。立てるか?」
「そうっスね……あざっス」
ネーヴェリアが差し出した右手を悠馬が掴む。そのまま引き上げられる形で悠馬は立ち上がった。
《悠馬よ、具合はどうじゃ?》
「大丈夫っス。何とか歩けそうっス」
悠馬はその場で軽く足首を回す。太腿を中心に鈍い痛みが残るが、ただ歩くのであれば支障はなさそうである。
「じゃ、ちょっと自分行ってくるっス。の前に、タオルと、着替えと……っと、ネーヴェさんにも渡しておくっス。ネーヴェさんの分のタオルと着替えとワールド──石鹸っス」
「石鹸? これがか? それに良く見ると変わった服だな。どうやって着るんだ?」
「あー、そうっスよね。今から説明するっス」
悠馬による日用品の説明が行われる。そこへ、紺色と水色の二体のハーピーが戻ってきた。
「チ!」
「ネーヴェ様。枝ヲ拾ってきたでゴザル。この辺ニ置けバ良いでゴザルカ?」
ハーピー達の足には、それぞれ数本の木の枝が器用に把持されている。いずれもよく乾いていて簡単に燃やせそうである。
「ああ、助かる。……そうだお前達。ユウマがこれから水浴びに行くから、念のためユウマの護衛を頼めるか?」
「承知でゴザル! ルヌも良いでゴザルナ?」
「チ!」
任せておけとばかりに水色の子供──ルヌが悠馬の右肩に飛び乗った。続いて紺色の若者──ヘクが悠馬に顔を向ける。
「ユウマ殿。水場はアチラでゴザル。拙者ガ案内するでゴザルヨ」
「かたじけないっス。お願いするっス」
《……悠馬よ》
妙に時代がかった台詞を発して悠馬は歩き出す。そこに、ガイアの声がかかった。
《すまんが、儂も連れて行ってくれんかの? タオルでざっと拭いてくれると嬉しいんじゃが》
「分かったっス、ガイア。一緒に行くっスよ」
《おお! すまんのう》
悠馬は抱えていたタオルや着替えをリアカーに放り込むと、ハンドルを引いてヘクの先導を受けて水音のする方へ歩いて行った。その姿が木々の間に消えるまで、ネーヴェリアはじっとりとした視線をその背に向けていたのである。
────
───
─
《おぉそこそこ、そこじゃ! やっぱり悠馬に拭かれるのは良いのう! 最高の気分じゃわい!!》
「ガイアうるさいっス。ちょっと黙ってて欲しいっス」
滝下の泉の岸辺に、悠馬とガイアの姿がある。悠馬は文句を言いつつも、濡れたタオルで丁寧に自転車を拭いている。
悠馬の服はパンツを含めて簡単に洗濯され、車体から外れたリアカーの縁に干されている。このため悠馬は今、全裸である。
「こんなもんっスかね。できれば油とか指したりしたいっスけど……」
《それはまだ大丈夫じゃ。次の機会にの。うむ、新品同様のピカピカじゃ! ありがとうの》
悠馬はガイアに頷くと、次に自分の頭を洗い始めた。汗と老廃物が溶けだした白い泡を、黄色いプラスチックの桶に汲んだ水で洗い流していく。
「あ゛ーー。気持ち良いっス! そう言えば、ここの水って微妙に温かくないっスか? それに、この匂いって」
《うぬ、ちょっと変わったものが混じっているようじゃ。別に毒ではなさそうじゃが……何じゃろうのう?》
「きっトそれハ、温泉でゴザル。この滝の上流には温泉がゴザってナ。そこの湯ガ混じってるでゴザル」
悠馬達の疑問に、岸辺に立つ紺色のハーピー、ヘクが答える。
「そうっス! 確かに温泉っス」
その回答により、悠馬は匂いが微かな硫黄臭だと気が付いた。微妙に水温が高いのも納得である。
《温泉? 聞き覚えはあるが見た事はないの。どんなもんなんじゃ?》
「ええと、地下から熱い湯が湧き出て池のようになった所っス。天然のお風呂っスね。広くて気持ち良いっスよ!」
悠馬は泡立てたタオルで体をこすりながら、ガイアの質問に答えた。
《熱い湯か。……正直、何が良いのか分からんの》
「拙者モ熱いのは苦手でゴザル。これ位ガ丁度良いでゴザルヨ」
「……チ」
ガイアの意見に、岸辺に立つ二体のハーピー達が同意した。彼らは既に水浴びを終えた後であり、先程からブルブルと頻りに体を震って水気を払っている。
「いやいや自分は去年温泉に行ったっスけど、めっちゃ良かったっスよ! 自分は好きっス。……確かその時は、かーちゃんと、ついでにねーちゃんと」
温泉旅行は、去年のゴールデンウィークに悠馬の初月給の使い道として、母への感謝として企画したものであった。その企画に、今も現役の大学生である姉がタダ乗りしてきたのはご愛嬌である。
「…………帰りたいっスね」
悠馬は桶で自身の泡を流した後、ぽつりと呟く。家族の顔を思い出した事で、望郷の念に駆られたのである。
《そうじゃの。母君達は、きっと心配しているの》
「社長さん達も。それにお客さんだって」
空を赤く照らしていた太陽は、すっかり山の向こうに沈んでいる。悠馬は上空に瞬き始めた星々を眺め、大きくため息をついた。
そんな悠馬に釣られてか、岸辺に立つヘクとルヌも寂しそうな表情になる。
「……なんか拙者モ、故郷ガ恋しくなってきたでゴザル。谷のデカミミズの味ガ懐かしいでゴザルヨ」
「チ……」
「ボクも。パパとママ、元気かナァ……」
「私もだ。けど私のは割と近くてな。この川の上流の温泉街、魔王様が避難先に選んだザゼットの街が、私の故郷なのだ。良い所だぞ!」
「…………へ?」
ヘクとヌルに続いた二つの声は、この場にいないはずのリプとネーヴェリアによるものであった。悠馬は目を丸くし慌てた様子でネーヴェリアに背を向ける。
「ネーヴェさん! 何で裸でいるっスかッ!!」
「それは私も水浴びしたからだが。私が来たら、な、何か問題でもあるのかッ!!?」
ネーヴェリアはつい先程まで水に浸かっていたのか、頭からつま先までずぶ濡れである。そして、その体には一糸も纏っていない。もちろん悠馬にとっては大問題である。
「いやいやいや! 女の人が素っ裸で男の前に立っちゃダメっスって!」
「……ユウマは異世界人だから知らないかもしれないが、この世界には混浴と言ってな。男女が共に入浴する風習があるのだ。私は一向に、か、か、構わないッ!」
ネーヴェリアは『構わない』と言いながらも、酷く緊張した様子である。
「へー、コンヨクだっテ。ボク聞いた事がないナー。ヘクは知ってル?」
「拙者モ初耳でゴザル」
「チー?」
「……うるさいぞ、そこ」
これはハーピー達に知見が無いだけで混浴という風習自体はこの世界にも存在する。しかし、年頃の女性が積極的に参加したがる類いのものではない。
ネーヴェリアにだって羞恥心はある。彼女は今、明らかに無理をしている。
「それでも、やるんだ。……今、ここで……!」
「ん? 何か言ったっスか?」
「別に何でもない。何でもないんだが……その、な。この石鹸とやらの使い方がやっぱり不安でな。ユウマ、すまんが私の髪も洗ってくれないか? ガイア殿のように」
そう言って、片手に持つプラスチック容器を揺らす。
《ふむ。悠馬よ、嬢ちゃんの髪を洗うくらい良いのではないか?》
「ガイアがそう言うならーーッ! 前くらい隠して欲しいっスッ!!」
ガイアの声に振り向いた悠馬は腰に手を当てた堂々たる立ち姿を目にしてしまい、再度の悲鳴を上げた。
「わ、私は構わんと言っているのだが……ほら、良いぞッ!」
悠馬が振り向くと、彼女は座椅子大の石の上に背を向けて座っていた。悠馬に言われた通り、タオルで胸を隠している。
……が、バスタオルでなく何故か面積の小さいハンドタオルが選択されており、巨大な二塊の全容は隠しきれていない。背中にくびれた腰、臀部の割れ目に至っては、丸見えである。
《悠馬、どうした? 様子が変じゃぞ?》
「だ、大丈夫っス! ……髪を洗えば良いんスよねッ!?」
悠馬はバスタオルを腰に巻くと、プラスチック容器の中身を手のひらに出す。そうして、どうにか意識しないようにしつつ彼女の髪を洗い始める。
「お、おおぉ……!」
悠馬の指が頭皮をこすり、頭が白い泡に包まれる。その程よい感触に、ネーヴェリアは思わず声を上げた。
「思ったより良いな、これは。癖になってしまいそうだ」
「マジっスか……痒い所は無いっスか?」
「大丈夫だ。気持ち良いぞ……」
ネーヴェリアはうっとりとした声を上げる。頭髪の汚れとともに、つい先程まで纏っていた緊張感まで溶けていくようである。
「それじゃ流すっスよ。……よし、こんなもんっスかね。じゃ自分はこれで「待てユウマ。次は体だ」
すっかり緊張が解けた彼女は立ち去ろうとした悠馬の手首を捕らえ、次のオーダーを言い放つ。
「ああそうそう。私は肌が弱くてな。タオルではなく、素手で直接洗ってくれないか?」
肌が弱いなどとは嘘っぱちである。彼女のじっとりと底光りする眼光から察するに、どうやら先程『既成事実』の名目で思いついた作戦(妄想)を、意地でも実行するつもりらしい。
ちなみに、この時点で彼女は部外者の騎士達がこれから合流するという予定をすっかり忘れている。目の前の事に夢中になって先の事に目が向かなくなるのは、気持ちに余裕がない時ほど起こりがちである。
「体を、素手で……って、え。ええぇ……!」
ネーヴェリアのあまりにも無茶な要望に、悠馬は狼狽える。
「いやいや、さすがにそれはちょっと。体は自分で洗って欲しいっス!」
「どうしてもダメなのか?」
ネーヴェリアの上目遣いが悠馬に刺さる。
「うぐッ! ……けど素手はマズイっスって」
《嬢ちゃん。悠馬はマズイと言っとるぞい? その辺にしといたらどうかの?》
「ガイア……!」
見るに見かねたガイアが釘を刺す。悠馬は内心で、これまでガイアの常識を密かに疑っていた事を詫びた。
「ガイア殿。……申し訳ないが、これには私の人生が賭かっているんだ。決してユウマを傷つけたりしない。どうか黙って見ていて欲しい!」
《なんと、『人生』が!? なら仕方が無いの》
「……………………」
釘を刺したガイアだが、あっさりと彼女に言いくるめられてしまう。悠馬は内心でガイアに詫びた事を後悔した。
「全く、当てにならない自転車っス。あ、ユニさん! ちょっと助けて欲しいっス!」
「ン? …………ボクには何モ見えないナー。お星サマ、キレイだナー」
助けを求められたユニが、トボけた反応を返した。悠馬の背後からネーヴェリアが殺気を放ったためである。
「ルヌ、拙者達ハ向こうへ行くでゴザル。……キットこの先ハ子供ガ見て良い物ではゴザラン」
「チー」
「いやいやちょっと待つっス! 助けて欲しいっスッ!!」
悠馬による必死の説得にも関わらず、ルヌとヘクの姿は森の奥に消えてしまう。
「ユウマ。さっきから『助けて』とは何だ? そんなに私の事が嫌いか?」
声に振り向いた悠馬をネーヴェリアの無表情が迎える。瞳のハイライトが、完全に欠落してしまっている。
「いや、別に嫌いってわけじゃ無いっスけど……」
「じゃあ好きか?」
「え?」
改めて好きかと聞かれると、微妙な所である。ネーヴェリアは決して悪人ではなく、それ以上に美人である事は悠馬も認めている。
が、悠馬は彼女と数時間前に会ったばかりであり、そもそも彼女の事をよく知らない。そんな相手に「好きだ」と言える程、悠馬は無謀でないし無責任でもない。
ちなみに、悠馬は単純な好みで言えば、ネーヴェリアのような大女よりも小柄な子──例えばアネリアのような子がタイプである。
「ええと、ネーヴェさんは良い人だと思うっス。それに美人さんだと。だだ、何て言ったら良いか……うーん」
結果として、どうにも煮え切らない回答になる。
「…………もう良い分かった。こうなったら実力行使だッ!!」
ネーヴェリアは胸に掛けていたタオルを放り投げた。目を丸くして硬直する悠馬を横目に彼女は片手でプラスチック容器を拾い、握力をもって一気に握り潰す。容器の中身が迸り、悠馬の胸にビチャリと掛かった。
「冷た! 何て事をするっスか―――ッ!」
揺れる二山が目に入ってしまい、悠馬は咄嗟に目を逸らす。
「何て事はない。ユウマが手で洗ってくれないなら、その全身で洗ってもらうだけだッ!」
そんな事を言いながら、ネーヴェリアは悠馬に密着する。
「あ、ちょ! 止めるっス! 本当にマズイっスってッ!!」
「何がそんなにマズイんだ!? ヌルヌルして気持ち良いぞッ!」
ネーヴェリアは目を血走らせて気勢を上げる。その背後では、ユニが空を見上げて素知らぬ顔で口笛を吹いている。
《あー……嬢ちゃんや。ちょっと良いかの?》
「ガイア殿、今良い所なんだ! 後にしてくれッ!!」
「うぁ……あああ……」
横からのガイアの呼びかけをネーヴェリアが拒む。その間にもネーヴェリアに弄ばれている悠馬は、目に光を失くして締まりの無い表情を浮かべている。
《いや来とるんじゃが。魔王の奴が。すぐ、そこに》
「…………マオウノ、ヤツ……だと?」
「……………………」
ネーヴェリアが油の切れたブリキの玩具のように背後を振り向くと、そこには本当に魔王──ニーベルンの姿があった。
白馬に跨がるその姿は、一見すると絵本に出てくる王子様を想起させる。ただ、馬の足が六本であったり、その馬の頭に朱色のハーピーが乗っていたり、何よりも当事者が苦虫を噛み潰したような表情であったりする点で、明らかに『白馬の王子様』とは異なる。
「楽しそうだな?」
「…………………………」
魔王が口を開く。一応ネーヴェリアの裸体を見ないように、視線は外されている。
「〜〜♪」
滝の音に交じり、ユニの若干音程を外した口笛だけが周囲に響く。そんな中、白馬の頭に乗る朱色のハーピー……リプだけが、ニマニマと、嬉しそうな笑顔を浮べていたのである……。




