過去・その2
「お疲れ様、道木くん!今日もかわいかったよ〜!」
そうやって頭を撫でてこようとする、マネージャーの女の先輩のことが、俺は苦手だった。
中学生になって、小学校の同級生たちはほとんど同じ中学になっていたが、彼らは落ちぶれていった俺に飽きたのか、それともスクールカーストの争いに夢中なのか、俺への嫌がらせは落ち着いていた。
変化点といえば、俺のあだ名が「どうかな」から「童貞」に変わったところくらいだ。半端に性知識を持った中学生らしい。「おい童貞」という呼びかけに対して普通に反応してみたときの彼らの、一瞬豆鉄砲でも食らったような反応は、なかなか面白かった。
そんな童貞くんだが、中学では陸上部に所属していた。部活の参加は強制で、何かしらの部に入らなければならなかった。
陸上部を選んだのは消去法である。文化部は吹奏楽部くらいしかまともな部がなく、運動部で、小学校のときに苦手だったやつを避けた上で、俺でもまともにできそうなのが陸上だっただけだ。
専門は長距離で、コミュニケーションもなく、淡々と走るだけというのが、性に合っていた。
陸上部では、体育会系の部活の例に漏れず、1年生が率先して雑用をこなすという文化があった。
暗黙の文化というよりは、入部早々に顧問の教師から暗に一年生がやれと仄めかされている。ならばどうあがいてもやらされるだろうと、諦めの気持ちで従っていた。
そんな雑用中に、やたらと話しかけてくるのが、件のマネージャー先輩であった。
「道木くん、ほんとかわいいよね〜。ツンツンしてて、猫みたい。」
マネ先輩は、練習中のタイムキーパーをしたり、休憩中にドリンクを配ったり、その他の時間は練習の応援をしたりする。たしか、身体が弱いとかなんとかでそういう役割が認められていた。
部員との距離が近く、誰にでも分け隔てなく接する。特に、男の部員からかなりの人気があった。
「道木くん、片付けてるの?えらいね〜!私も手伝ってあげる。」
マネ先輩は、別に天真爛漫というわけではない。八方美人で、男にあざとい。俺に絡んでくるのも、文字通り童貞をからかって遊んでいるだけだったのだろう。
当然、マネ先輩のことを無視していても、嫉妬の目は集まってくる。特に酷かったのが、俺と同じ長距離で、マネ先輩と同じ2年生の、ちょっと不良ぶってる先輩だった。
そいつは、入部して半年くらいがたった秋頃から、マネ先輩と他の1年生を早く帰るよう誘導し、俺一人に雑用を押し付けてくるようになった。
別にそのくらいなら耐えれたので、黙って雑用をこなしていた。
しかし、マネ先輩は、俺のことをからかっているだけで勝手に嫉妬される、要は簡単にモテる状況に味を占めたのだろう。
練習中の俺への絡み方やボディタッチがどんどんエスカレートしていった。
ある日の雑用中、体育倉庫に入ると、例の男の先輩が後ろから入ってきて、つかみかかられた。
突然のことに抵抗したが、最終的に胸ぐらをつかまれ壁に押さえつけられた。
「お前調子乗ってんじゃねぇよ。」
「うっす。」
この状況で「うっす」意外に適当な返しはないだろう。
余計なことを言ってもこじれるだけだ。
「んだよその態度。舐めてんのか?一人でダラダラ片付けしやがって。ほかの人に迷惑かけてるってわからないわけ?あんま調子乗ってっと、っすぞ。」
「うっす。」
それから何度か問答を繰り返したが、態度を変えない俺に苛ついたのか、そいつは俺の胸ぐらを強引に引っ張って投げ飛ばした。
棚にぶつかり、上から道具が崩れて降ってくる。
そいつはわざとらしく舌打ちを一発ならし、
「おい、ちゃんと片付けておけよ。じゃあな童貞。俺これからデートなんだわ。」
そう言って笑って出ていった。
足首を捻ったのか、しばらく立てなかった。
ようやく立ち上がり、ノロノロと棚の片付けをしていた。
秋の夕暮れの光はすっかり消えていた。
体育倉庫の電気もつけず、月の薄明かりを頼りに作業を続けた。
不意に誰かが近づいてくる足音が聞こえた。体育倉庫の鍵を閉めに来た顧問の教師だった。
「おい、こんな時間まで何をしている。下校時刻だぞ。」
「すみません。片付けをしていました。」
「何?部活が終わってから1時間以上経ってるぞ。遅すぎるんじゃないか?」
「すみません。棚が崩れてしまったので。」
「はぁ…どうせふざけてぶつけたんだろ。まったく。片付けには人間性が出るんだ。ちゃんと真面目にやりなさい。」
その言葉にカチンと来てしまった俺は、つい言わなくてもいいことを言ってしまう。
「ああ、真面目にはやっていましたが、先輩に投げ飛ばされて棚が崩れてしまったんです。」
「何?誰がやったんだ。」
あいつの名前を出すと、教師は露骨に嫌そうな顔をした。
「あいつか…はぁ、まあいい、あいつには明日俺からも事情を聞いておく。でも、お前にも原因があったんじゃないのか?同じ長距離グループなんだ。後輩のお前が折れてやってもいい部分はあるんじゃないか?少なくとも投げ飛ばされるようなことにはならんだろう。」
その時点で言ったことを後悔していたが、教師の言葉はまだ続いた。
「社会に出たら、その程度の理不尽、いくらでもある。今のうちに正しい対処を学んでおけ。それが文化だ。とりあえず下校時間だから、今日はもう帰りなさい。」
俺も、もうさっさと帰りたかった。
適当に挨拶をして、足早に体育倉庫から出る。
しかし外に出たところで、捻った足が痛んで、転びそうになり、膝をついた。
「おい、どうした?」
鍵を閉めていた教師がこちらに気づく。
ちょうどいいと思い、教師に告げた。
「すみません。さっき投げられて転んだときに足を捻ってしまったので、明日の練習には出られません。」
そう言うと、教師は露骨に顔をしかめ、わざとらしくため息をついた。
「あのな、部活の休みの連絡にはルールがあるだろう。ちゃんとしなさい。それに、部活に出たくない気持ちは分かるが、ズル休みはいかんぞ。こういう問題を起こしてしまった時に、逃げずにちゃんと立ち向かうからこそ、成長できるんだ。」
そんな言葉を聞いて、悔しいとか、悲しいとか、そういうものではなく、本当に、なにもかもがどうでもよくなってしまった。
あいつへの怒りとか、教師の理不尽だとか、足の痛みとかも全てがどうでもよく、ただただ、早く帰って寝たかった。
教師には一瞥もくれず、足早にその場を去った。引き留める声がしたような気がしたが、ささいなことだったので、無視した。
そうして、いつの間にか自分の部屋に着いていて、そのまま眠った。次の日、目が覚めなければいいと、本気で思っていた。
次の日が来て、まだ昨日の、なにに対しても面倒くさいと思う気持ちは残っていたが、不思議なもので、いつも通りのルーティンをこなし、普通に登校した。
ただ母親に学校を休むと告げる会話さえも、煩わしくて仕方なかった。
授業が終わり、放課後、帰ろうと支度をしていたら、例の男の先輩が教室まで乗り込んできた。
「おい、面貸せ。」
そのまま俺の腕をつかんで、人けのない、屋上階段まで連れて行かれた。
「お前、先公にチクったろ。昼休み呼び出されたんだ。どうしてくれるんじゃ、コラ。」
それすらもどうでもよく、無視してもよかったのだが、その瞬間、一つ思いついたことがある。
それは、自分でも笑っちゃうくらい、いいアイデアだと、本気で思っていた。
「へぇ、よかったっすね。」
自分の声とは思えないくらい、軽薄そうな声だった。予想通り、あいつの怒りが一段上がった。
「おい、舐めとんな。本当にやるぞ?コラ。童貞のくせに…」
そこまで言ってあいつは、なにか面白いことを思いついたように、ニタリと笑った。
「俺はァ、昨日マネージャーに告白して、オーケーもらったんだよ。残念だったなァ!童貞にはわからんかもしれんが…」
俺の耳元に、その唾液で粘ついた、汚い口を近づけ、
「あいつの初めても、俺がもらったわ。」
俺はなんだかおかしくて、どうにもこらえきれず、吹き出すように、笑ってしまった。
そういえば、このときが、小学生から笑わなくなって、24歳の大学生となった今までで、唯一笑った瞬間だった。
ポカンとしたあいつに、攻撃が効いていないとかそういう次元でもなく、本当に、おかしくて堪らないように、
「本当に、先輩、面白いっすわ。」
その言葉を皮切りに、あいつは俺に掴みかかって、馬乗りになって、八つ当たりのように殴ってきた。
中学生の体格で殴られるのが、こんなに痛いだなんて思ってなかった。
体の自由を奪われて、一方的に痛めつけられるのが、こんなに苦しいだなんて思いもしなかった。
でも、やめてくれと叫び、涙ながらに抵抗し、情けなく体を丸めてうずくまろうとしている俺の中の、ほんの僅かな理性的な部分が、計画の成功を喜んでいた。
殴られたことがトラウマで、学校に行けないというストーリーができる。
学校から、もっともらしい理屈で逃げられる。
文化とか伝統とか、そういうしがらみから解放される。
そう考えれば、いつまでも続いてしまうような、一方的に殴られるこの状況でも、壊れずに済むんじゃないかって。




