第五話
殴られる、蹴られる、首を絞められる。
不思議と痛くなかったが、ドン、ドン、と鳴る音が耳障りだ。
思わず身じろぎをする。柔らかい感触の中に、なにか硬いものがぶつかった。
ここはどこだっけ?屋上階段、ああそう階段。段差がある、ずりおちそうになる。
でも地面が柔らかい?
そうしていると、ドン、ドン、という音はさらに大きく、さらに多くなる。
かすかに女性の声。なんの話だっけ?そう殴られている話。
じゃあ逃げなきゃ。車の窓。そう、車で寝ていたんだった。あれ?階段だっけ?でも、逃げれる。
車の鍵を開けるとドアが開いた。思わずつんのめると、肩を支えられる。
「道木さん!道木さんっ!」
道木はそこでようやく目を覚ました。夢を見ていたらしい。
今の自分。運転席に座って、ドアを開けて、上半身だけ外に出しながら、女性の身体にしがみついている。
それが宮窪だと気づくまで、数秒を要した。
「道木さん、気が付きましたか?…すみません。すごくうなされているように見えて、起こしてしまいました。」
と、いうことらしい。
恥ずかしさで顔を上げていられない。
道木は顔を上げないまま、手探りでスマホを探す。スマホは背もたれの下に落ちていて、ちょうど腰のあたりにあった。時刻は8時過ぎ。
昨晩は宮窪のことを気にかけていて、あまり寝付けなかった。その結果がこのザマである。寝坊した上に、寝ぼけて宮窪にしがみつく。
いつまでもこうしてはいられないと顔を上げると、彼女は予想通りの心配そうな顔から、さらに悲しそうに、悔しそうに眉をひそめた。
そうして、道木は、自分が泣いていたことに気づいたのである。
「…すみません。みっともないところを見せました。」
道木、恥ずかしさの極みである。思わず敬語に戻ってしまうほど。
彼にとって、悪夢とは日常であった。しかし、これほど鮮明な悪夢は、引きこもりから脱して以来、久しぶりのことであった。
「もう、大丈夫です。ちょっと悪い夢を見ただけなので、すみません。」
そう言って平静を装ってみるが、彼女の心配そうな顔を崩すことはできなかった。
道木は、なんにせよ、一人になりたかった。彼の過去の、いつまでも消えないあの日の感情が、まだ燻っていたから。
もしかしたら、ほんのすこしでも、彼女にぶつけそうになってしまうから。
「いえ、それはいいのですが…」
彼女はまだ心配そうで、そこを動く気はなさそうだった。
仕方ない直接的に言うしか無いかと道木は言葉を選ぶ。
「すみません、一人にしてもらえますか?悪夢を見た日は、こうなんです。あ、行く宛がないなら僕の家をそのまま使ってもらってもいいので…」
「嫌です。」
彼女は毅然と、ひょっとしたら怒ってるんじゃないかというほどの剣幕で、そう言った。
彼女らしからぬきっぱりとした物言いに道木がたじろいでいると、彼女は突然家の方に歩いていってしまう。
なにがなんだか分からないでいると、宮窪はすぐに戻ってきた。手には、昨日身につけていたバッグを持って。
そうして勢いのまま助手席に乗り込むと、シートベルトまでつけて、こちらに向き直った。
「あなたがどこかへ行くというのなら、着いていきます。家にいるというのであれば、一緒にいます。このまま車にいるというのなら、ここから離れません。」
彼女は一度息を整えて、
「昨日、私を無理やり安心させてきた人と、同じことをするだけです。あなたがどうしても嫌と言わない限り、私は私のやりたいようにします。」
そう語った彼女の目を見て、彼女が予想以上に頑ななことと、自分が予想以上に喜んでいることに、道木は気づいた。気づいてしまった。
その上で、
「…一旦、シャワーだけ浴びてもいいですか?部屋にいてもらっていいので。」
その許可を勝ち取った彼女は、すこしだけ誇らしげだった。
「いや、本当に行くのか?土曜日の昼間から?二人で?」
「だからそう言っています。もう予約も取ったんですよ?」
道木がシャワーを浴びて朝食を準備したり、宮窪がコンビニに行って身支度に必要な品をそろえたりしている間に、気づけば時刻は10時を超えていた。
コンビニから帰ってきた彼女は、ついでに映画のチケットをとってきたとのたまう。勝手に本日の予定が決定されていた。
「道木さんには、映画館という落ち着いた空間で、映画という非日常と向き合うことが必要なんです。私も見たかった映画なので、後悔はさせません。」
心理の専門家でも、映画の専門家でもない彼女がそのように言う。
まあいいか、というわけで、二人は車で映画館へ向かっていた。
近所のショッピングモールに到着したが、映画の開始にはすこしだけ時間があるようだった。
朝食はさっき食べたばかりなのでお腹も空いていない。映画が目的で、特に買いたい物もない。
そうして二人は、ウィンドウショッピングですらない、ただの散歩というべきか、ショッピングモール内を練り歩いていた。
女性と一緒に出かけたことなど無い道木からしたら、恐縮しきりである。
「ねぇ、宮窪さん、ほんとにこんな感じでいいわけ?」
「もちろんです。男女二人並んで歩けばそれすなわちデートです。」
デート、という単語に道木はわかりやすく動揺する。宮窪は続けて、
「それに、これから見る映画はラブコメなんですよ?予習は大切です。」
そう、これから二人で観る映画は、よりにもよってラブコメ映画だった。
『お酒の妖精さんと仲良しな私が、居酒屋で出会った彼と恋に落ちる』という、ラノベ原作の映画。
道木は原作を知らず、宮窪に検索も禁止されていたため、前情報無しで望むことになる。
「そうだ!昨日私のことを茉莉って呼んでくれましたよね?せっかくならお互い名前で呼び合いませんか?叶太くん。」
突然の提案に、水を飲んでいないのに、何かを吹き出しそうになる。
「み、宮窪さん、それはさすがに…」
「なんでですか?叶太くん?1回呼んでくれたなら2回も3回も変わらなくないですか?それに…、私たちそのくらいは仲良しだと思ってたんですけど…」
わかりやすく、打算100%の彼女の仕草に、過去の記憶が刺激される。
一瞬嫌なものがうずいたが、それはすぐに消えた。
どうして彼女のことになると、こんなに信じられてしまうのか、道木にはわからなかった。
それはそれとして、目をうるうるさせている彼女を前にすると、周りの目も気になってくる。
「わかった。わかったよ茉莉。これでいいんでしょ?」
そう言うと彼女は、パァっと花が咲くような笑みを浮かべた。
それからも、茉莉の名前を呼ぶと、わかりやすく機嫌がいい。
そうして、ショッピングモールのテナントなんてまるで目に入っていないように、会話しながら歩いているだけで、すっかり映画の時間になっていた。
叶太は、なんだかデートっぽくないなぁと思いながら、彼女の横に並ぶ。
それは、ただ自分を客観視できていないだけだろう。




